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​「Good Mentor」

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、オフィスにお勤めの男性です。大きな会社の小さな部署で働く人の一日を、一緒に覗いていきましょう。


  P-PingOZ 「Good mentor」 ナレーション/ドロシー


 ましろ地区、RCシーサイドヒル、朝8時40分。シーサイドと言うにはやや海から遠いんですけれど……ともあれ、このガラス張りの、直方体が背の低い順三つに並んだ建物の9階から、今日のエピソードは始まります。
 あくびをして、眠そうな青い目を擦りながら社宅の鉄扉を閉じたのが、今日の主人公、石水ハナダ【いわみ-/男性/25歳/会社員】さん。起き掛けのシャワーで生乾きなのでしょうか。栗毛から滴る水が、サンゴ色のボーリングシャツを濡らします。
 ハナダさん、大きなリュックを左肩にかけ、朝ごはんのゼリー飲料を片手に廊下をペタペタと歩いていきます。混雑するエレベーター前を通り過ぎて、そのまま階段を……あれ? 登っていきますね?
 実は、この34階建ての建造物は、RC保険会社の職住一体本社ビルなんです。地下1階から地上7階までが一般の方も利用できる商業施設、8階から14階が社宅と福利厚生スペース、15階が社屋のエントランス、そこから最上階までが業務棟です。
 ハナダさんの事務所は19階。階段を徒歩で8分、あるいは各停エレベーターで50秒。徒歩通勤を選んでいるのは、人ごみを避けてのことです。すれ違う社員さんに首を前に出すような会釈を返し、19階に着いた頃には、ハナダさんのおでこに汗が浮かんでいらっしゃいました。
 あら、ハナダさんったら。誰もいないのを良いことに、ゼリー飲料をくわえて啜りながら、廊下に並ぶ小型ロッカーを指紋認証で開けています。ラップトップなどの入った肩掛けキャリーバッグと業務用携帯端末を引き出し、入れ替えにリュックと私物の携帯端末をしまって、肘で閉めました。
 くわえたアルミパックをブラつかせ、携帯端末を両手で操作しているハナダさん。その横を、「おはようございます」別の課の社員さんがご挨拶。お行儀悪いところを見られてしまったハナダさん、咳払いして振り返ります。
 挨拶をした社員さんはもういらっしゃいません。ハナダさん、背中を丸めると、ゼリー飲料の空き容器を握りつぶし、近くのごみ箱に投げ捨てました。それから、業務用骨伝導イヤホンのネックバンドを首からかけて、一呼吸。業務用携帯端末をドアロックにかざして開錠しました。
 ドアの向こうは、白と茶色と赤でまとまった、自由席型の開けたオフィス。ここが、ハナダさんが勤めるRC保険会社の、お客様サービス窓口4課、通称「きたみ課」で使えるフロアです。先ほど携帯端末で確保した、窓際のデスクへ腰をおちつけたハナダさん。ラップトップを起動させると、首を回しました。
 RC保険会社が扱う商品は、個人向けと法人向けで多岐にわたります。お客様の問い合わせも毎日ひっきりなし。そこで、お客様が自己解決可能なお問合せに対しては、他社と同様にAI社員を導入しています。「きたみ」と「つきよ」という赤毛の若い双子です。
 きたみが男性でテキストチャット対応を、つきよが女性で音声対応を行います。キャラクター設定もあって、それに基づき数回程度の雑談には応じてくれます。その「きたみ」の会話精度と品質向上をはかるのが、ハナダさんの業務です。
 在宅可能なお仕事ですが、社宅に住む条件としてオフィス勤務があるんですって。5人体制の部署で、出勤しているのはハナダさんと直属の課長さんだけです。部署は5人ですが、広報や保険業務の担当とも連携し、実務にあたる方は三倍ぐらいになるんだとか。
 午前中のお仕事は、きたみさんが受けたチャットログの確認です。前日営業締め時間までのログから有人オペレーターへ引き継いだ案件が、きたみ課に転送されてきます。それを出勤人数で頭割りして確認、きたみさんだけで解決できたはずのログに『改善』のラベルをカチカチと貼っていきます。【画面には個人情報、業務上機密保持の観点からぼかし処理を行っています】
 改善の対象は、個人情報に踏み込まないもの、話が込み入っていないもの、誤変換を正しく読み取れなかった、などです。
きたみさんが受けた数千件に対して、有人対応になったものは百件未満です。それなりの精度があります。ハナダさんが開いている部内チャットでは、今日は少ない方というテキスト雑談も行われていますね。そんな話の輪に加わることもなく、一時間ほど地味なお仕事をこなします。
 そのハナダさんが手元に置いた業務用携帯端末から、ぽこん、と、通知音。フキダシ型のテキストメッセージが届いています。『助けてメンター』他社から転職してきた年上の後輩、渡辺ターコイズさんの救難信号です。『変なログがある。通話できる?』
 ハナダさん、骨伝導イヤホンのクリップを耳たぶに挟み、携帯端末で個別通話を入れます。
「石水です。どうしました?」
『ごめんよ、忙しいところ』
 寝ぐせも直さない、リラックスしたTシャツの男性がラップトップに現れます。
「いや。いいですよ全然。タコさんが変って言うなら、本当に変なんでしょ」
 ターコイズさんは転職間もない方ですが、飲み込みも早く陽気な方で、あだ名で呼ぶも本人のご希望です。
『初めて見るタイプでさあ、お客の意図が全然わからん。ログ出すね』
「どうも」
 ハナダさん、届いたファイルを開きました。ご自分の仕事画面から離れて、ターコイズさんとのお話に集中します。
 お名前と同じ青い目を上下させて読み込むハナダさん。画面はお見せできませんが、概要をサッと説明しますね。公式ウェブサイトできたみさんに問い合わせをした方が、最終的に有人オペレーターとの音声対応に切り替えられているのですが……
 そのテキストは絵文字と意図的な誤変換が組み合わさったものでした。ハナダさんのお鼻に皺が寄ります。そのまま、通話の文字起こしを確認していたハナダさん、途中で口元に手を当てたまま、画面を読む瞳の動きが止まってしまいました。お顔の皺だけが深くなっています。
『ヘイ、メンター! 会社でしちゃいけない顔!』
「あ……すみません。これ、課長報告モノだと思います」
 ハナダさんは姿勢を正し、頑張って頼りがいのある笑顔を見せました。
「俺が引き受けますんで、任せて。あとで結果だけ知らせますね」
『サンキューね。いつも頼ってすまん』
「次は任せますよ」
 ターコイズさんから音声ログも転送してもらい、通話を終了したハナダさん。同じフロアのどこかにいる課長さんへ、個別メッセージを打ちます。課長さんからはすぐお返事があり、ハナダさんは携帯端末片手に、課長さんの席へ向かいました。
「どうも」
「お疲れ様。何か困った?」
 課長のイリヤさんは、白髪のショートヘアの毛先を赤く染めて、緑のワンピースが似合うおばあ様です。
「通話でもいいのに」
「直接お願いしたくて」
 イリヤ課長、首を傾げます。
「一昨年のツバキ月、僕が車保部【車保部:車両保険部の略】にいた頃の音声ログと、さっき転送した音声データを照合して欲しいんです」
 課長さん、何か思い当たったんでしょうか。やんわり笑って頷いてくれました。
「石水くん、この……月初の20分以上のやつ、全部そう?」
「ですね」
 お客様サービス窓口の課長職以上が、通話音声を解析ソフトにかける事が可能です。困ったお客様の対応や、過去事例の参照に活かすようにしています。
「画面見てなくても良いからね?」
「お言葉に甘えます」
 イリヤ課長のお顔も険しくなっています。課長が閲覧する画面のテキストログは、言いがかりに近いご意見を手を変え品を変え繰り出すお客様の言葉が何行も続いていました。
「……石水くん、大当たりだ」
 お言葉に甘えたハナダさんが社内SNSで可愛い猫人形の画像を眺めていると、課長さんから名前を呼ばれました。
「きみが昔頑張ってくれたお客様だった」
 ハナダさんが指定した過去事案と、今回のお客様がほぼ同一であることが確定したようです。ハナダさん、おなかのあたりを手でおさえました。
「確かに、これは6課【お客様サービス窓口6課:個別対応が必要な顧客を請負うセクション】マターだね。言いづらかっただろうけど、報告してくれてありがとう」
 ハナダさん、力のない笑顔で首を横に振りました。
「新人さんから頼られたら、そりゃあやりますよ。仕事ですもん」
 それから居住まいをただして、ハナダさんは課長さんへ向き直ります。
「個人的な提案なんですけど。こういうの、じかに『上席』に繋げないですか?」
 理不尽なクレームや、無理難題をおっしゃるような、困ったお客様の対応を行ってくれる、お客様サービス窓口6課の用意した受け皿が『上席』です。
「テキストチャットが不審であれば、いったん『上席』で受けて、必要ならそこから下ろして貰えたら、オペ部も楽だと思うんです」
「石水くんの件で『上席』ができたんだもんね。活用しないとよね」
 課長さん、ハナダさんを元気づけるようにパワフルな笑顔を見せました。
「速攻で稟議かけて、音声通話のアドレスを上席に誘導できないか、やってみます。でなきゃ、きみも悔しいもんね。任せて」
「よろしくお願いします」
 頭を下げ、ハナダさんは自席に戻ろうとします。その丸まった背中に、課長さんが声を掛けました。
「石水くん、つらかったら午後休取っていいから」
 振り返ったハナダさん、首を前に出すような会釈を返しました。
「大丈夫です。昼ミーティングは出ます」
 ハナダさん、自席に戻ってからラップトップを閉じ、ロッカーに向かいました。常備してある錠剤を、ウォーターサーバーのお水で飲み込みます。ゆっくり深呼吸をしたハナダさん、それからお昼休みが終わるまで、自席には戻りませんでした。



  ◆


 13時になりました。今日の主人公、石水ハナダさんも自席に戻って、全員がモニタ越しに顔を合わせてのミーティングが始まります。ハナダさんと同じフロアでお仕事をしていた課長さんはお隣の席に移動なさっていて、午前中は寝ぐせだったターコイズさんはオンタイムの出で立ちですね。
 このミーティングは、きたみさんのログで「改善」タグのついた応答について、具体的な内容を検討するものです。採用案を稟議にかけて可決されれば、数日で、きたみさんにフィードバックされます。およそ60~90分のミーティングで、20件近い案件が検討され、半分程度が稟議に回りました。
 ミーティングの終わりに、午前中にハナダさんから課長さんへ回ったパスについて、課長さんからお話がありました。ハナダさんが被害に遭われた部分は伏せて「過去に業務妨害を行っていた顧客」としてスピード受理され、今後の対応も窓口全体に周知されるんですって。良かったですね!
「じゃあ解散、お疲れ様!」
 課長の声かけでチャットツールを終了させたハナダさんの隣で、課長さんも腕を天井に伸ばします。
「石水くん。これで、ひとまず良いかな?」
「はい」
 おじぎするハナダさんの背中を、課長さんが強めに叩きました。
「お礼はいいから。今日は仕事しまって帰りなさい」
「いや」
 ハナダさん、ご自分のお仕事が気になるご様子ですね。午後は、来季のきたみさんの異動に合わせて、後継になるAI社員さんのキャラクターを作るため、古いデータを参照したり、広報から貰う同業他社のリサーチ結果を取りまとめる予定でした。
 RC保険会社のAI社員は、異動という形式でキャラクターの交代が起こります。部外秘のお仕事ですが平時よりずっと忙しく、きたみさんが朝眠そうなのも、社宅に戻ってから深夜まで、個人的に調べものをしていたせいです。
「まだやる事が」
 ハナダさんは食い下がりますが、課長さんはそれを遮って、ハナダさんの目を覗き込みました。
「見てたからね?」
 痛み止めを飲んでから仕事に戻れていなかったこと、ご存じだったみたいです。
「無理が祟ったら大変です」
 言い返す間も与えず、課長さんはハナダさんのラップトップを終了させました。その上、ハナダさんに勤怠アプリを入力させて、廊下に出るまで見送る徹底ぶり。有無を言わせぬ、というのはこういうことですね……確かに顔色も良くないですし、お休みしたほうがいいかもしれません。
 さて、そうしてお仕事場から放り出されてしまったハナダさん。首のあたりを指で掻いてから、大人しく帰り支度を整えました。
 階段をゆっくり降りて10階下の社宅へ向かっていると、「先輩!」階段を上ってきた女性に呼び止められました。
「帰りですか?」
 こちらの、長い髪を編み込み、品よくまとめた方。姜八重【きょうやえ/女性/24歳/会社員】さん。ハナダさんが体調を崩されて異動する前は、車両保険部【現、お客様サービス窓口1課】で先輩と後輩でした。今でも仲良しです。専用のコールフロアでお仕事の筈ですが、どうかなさったんでしょうか?
「今日はね。ちょっと早めに。姜さんどうしたの?」
「午後休です。これからジムですか?」
 八重さんは、ハナダさんの大きなリュックを見ます。
「行こうとしてたけど、良いかな……」
 14階の福利フロアには、社員のみ利用可能なスポーツジムがあります。社宅の利用者は利用料が半額になるんですって。
「じゃあ、良かった。実は先輩にお渡しする物があって!」
 なんとなく階段を下り始めているお二人。八重さんが通勤鞄から、長方形の封筒を取り出しました。「こちら」
「うん」
 ハナダさんが受け取った封筒には、白地に水色のインクで『Invitation』と書かれています。
「挙式の招待状です」
「お? おおー」
 ハナダさん、立ち止まって封筒を眺めます。
「おめでとうでいい?」
「ふふ、ありがとうございます。いいやつです」
 ハナダさん、青い目を大きく開いてから、にっこり笑います。
「それは、おめでとう。ご両親、色々許してくれたんだ」
「はい! その節はご心配をおかけしました」
「まったくだ」
 ハナダさんは、八重さんからの招待状を丁寧にリュックにしまいました。「実は」そのハナダさんに顔を近づけた八重さん、ヒソヒソ声になりました。「先輩だけお誘いするんです」
「え?」
「あんまりこっちの会社から人を呼ぶと、親も良い顔しないですし」
「ああ、なるほど」
 数歩階段を降りてから、ハナダさん、何か気が付いたご様子。
「本当に俺で大丈夫なの?」
 先を行く八重さんが振り返り、ほころぶような笑顔を見せました。
「笑いごとじゃなくて。俺、ご両親に顔バレてるぞ」
 八重さんのご実家は、ましろ地区に自社ビルを持つ食品輸入会社です。長子の八重さんがご両親の方針に反抗してこちらに就職したため、ご両親がやってきて、エントランスで喧嘩になったことがありました。その時偶然居合わせて、後輩である八重さんの肩を持ったのがハナダさん。
「あの時先輩が応援してくれたから、親と交渉できるようになったんです。仕事もめちゃくちゃ助けてもらったし」
「お相手は承知してるの?」
 まだ心配そうなハナダさんに、八重さんは頷きます。
「マジメな話していいですか」
 エントランス階の踊り場で八重さんは立ち止まり、階段の手すりに寄りかかりました。手すりの飾りになっている、赤い蝋燭を象った社章を掴んで、八重さんは何かを謝るような顔をなさいます。
「どうしたの」
 隣で一緒に手すりに寄りかかったハナダさん、ご自分も本調子ではないはずなんですが、八重さんを気づかわしげに覗きます。
「車保の時、みんなの面倒な受電引き受けてくれて……調子崩されたの、そのせいじゃないですか」
「いや、それとこれとは別よ」
「嘘つき。お昼、うちの課長がそっちの課長と話してるの聞いたんですよ」
 八重さんに睨まれて、ハナダさんは顔を真下に向けます。何か言おう、としていらっしゃるのですが、顔を上げては八重さんの方を向けず、結局息を吐いて、うつむいてしまわれました。
「いや、責めたいんじゃなくて!」
 八重さんが咳払いしました。
「先輩が頑張ってくれたおかげで、私は元気に好きな人と結婚できたよって言うところ、見守って欲しいんです。こんなにスクスク育ちましたよ~! ありがとうございます! って」
 ハナダさん、首だけ八重さんのいる左側に向けます。
「……良い子に育ったねえ」
 少し掠れた声で、ハナダさんは言いました。
「こっちこそ、ありがと。ちゃんと先輩やれてたみたいで良かった」
 ぐす、という音がハナダさんから聞こえました。
「実は部外秘の仕事でめちゃくちゃ忙しくて、1か月ぐらいコレで」
 ハナダさん、右手の人差し指を上下させます。このビル内だけで生活している、という意味です。
「うわ」
「で、午前の件でちょっと情緒もアレで、メシも食えてない」
 ハナダさん、手すりから勢いよく体を剥がしました。
「メシ付き合ってくれる?」
「オッケーです!」
 八重さん、体を反転させて元気よくお返事してくださいました。
「じゃあ外行こう、外! 着替えるわ。先降りて待ってて」
「え? 別に気にしないですよ?」
「届いたきり着てないジャケットがあるから」
 そうして、エントランス階の階段でお二人は別れます。八重さんはハナダさんに手を振って、直通エレベーターで1階へ、ハナダさんはそれを見送って、各階停車エレベーターで社宅の階まで。
 幾分軽やかなハナダさんを乗せ、エレベーターがベルのような開閉音を鳴らして閉まりました。


【スタッフ】ナレーション ドロシー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック


 P-PingOZ「Good mentor」 終わり

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