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「ヒバさんの落とし物」

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、朝のモノレールでウトウトする女性。編み込んでまとめた黒い髪を崩さないように下を向いて船を漕いでいらっしゃいましたが、目的駅に到着するアナウンスで顔を上げます。
早足でモノレールを降り、鞄の中にあるはずの物を探して……その手が動きを止めました。

 P-PingOZ「ヒバさんのおとしもの」 ナレーション/ドロシー

 もみじの月、朝8時頃のことです。環状モノレール、虹先ターミナル駅。
ひとりの女の人が、もくもくと鞄の中身を取り出していました。こちらが今日の主人公、栂・グウェン・ヒバ【つが・ぐうぇん・ひば/42歳/女性/義肢カウンセラー】さんです。
 改札内の広いアトリウムにある、波のような形のベンチに腰掛けるヒバさん、険しい表情で黄色い鞄の中をあらためています。その真っすぐに結ばれた唇は、ぐいと右に引かれています。
 今では珍しいアナログ筆記具や、飲み物のボトル、読書専用の二つ折り端末など、ヒバさんの隣には荷物がどんどん並べられていきますが、通り過ぎる人たちは、ヒバさんに特に関心を寄せません。他人に興味の薄いのが第02特区の気風ですし、通勤通学の方たちは、そこまで気にするゆとりがありません。
「うーん……」
大きなショールを引きずり出して、最後に鞄を逆さに振ると、ハンカチ、消毒シート、タッチペン三本、ワイヤレスイヤフォンが片方だけ。あとは叩いても揺すっても、なんにも出てきません。
「……困ったね」
 しっかりした眉を歪ませて、ヒバさん呟きます。どうしてこんなにお困りなのでしょう?
 実はヒバさん、会社から貸与された携帯端末を紛失したようなんです。
 特区では、業務に関わる決済に、社用端末や支払いアプリケーションを指定する企業が多くあります。支払い履歴を会社で監視し、不正があれば、すぐ調査が行えるようにです。
なので、ヒバさんも、ご自宅の最寄り駅では、社用の端末を改札にかざしたのですが……
 先ほど逆さに振った鞄からは、その端末も、私物の端末も、お金の入った革袋【使い捨てクレジットカード全般を指す】も、出てきませんでした。
 唸ったヒバさん、細く長く息を吐いて、周囲を見渡し、鞄の中身を丁寧に戻します。それから勢いよく立ち上がって、ローファーを履いた足を大きく動かし、アトリウムを改札に向かって歩き出しました。
 虹先ターミナル駅は、特区の北側から中央のすいぎょく地区に乗り入れる手前の、とても大きな駅です。アトリウムも広々として、白地にプリズムが反射する映像が、壁や床に投影されています。爽やかで、洗練された空間です。
 そのアトリウムの隅に、ずらりと並ぶコンシェルジュ端末たち。ここが、ヒバさんの目的地。公営施設に必ずいるこの端末には、ウィンキーという愛称がついています。
ウィンキーはカメラでヒバさんを感知すると、『お困りですか?』と、性別不詳の合成音声で声をかけました。
「困ってるんですよ」
消毒シートで端末の画面をふき取りながらヒバさん。画面には、「地図を見る」「伝言サービス(有料)」「充電(有料)」「支払い/チャージ」「遺失物」などなど、各種サービスが表示されています。
 ヒバさんは右下の「その他」を、鞄から出したタッチペンでタップします。何度かの画面選択ののち、「駅員を呼ぶ」に辿り着きました。画面と合成音声が『しばらくお待ちください』と告げます。
ウィンキーの言う通りにしばらく待つと、深い緑色をした制服の駅員さんが、迷惑そうにやってきました。
 支払いに使う端末を紛失したと事情を説明したヒバさん、盗難防止のコードで駅員さんと繋がる携帯端末を貸してもらえます。それも丁寧に消毒シートで拭き取ると、少し悩んでから両手で番号を入力して、携帯端末を片耳に当てました。電話のお相手は、ご家族でしょうか。
「ありがとう、助かる! あなたの生体鍵【テロップ:生体認証情報】は残ってるから、それで入って。財布は、多分、リビングに。うん。頼むね。ありがとう」
ヒバさんの声も、ひとり言の時より、いくらか柔らかくなっています。
 電話を終えると、駅員さんに何度もお礼を言って、三枚目の消毒シートで端末を拭き取ってから返します。駅員さんは、ご家族が来たら支払いは有人窓口に来るよう伝え、小走りで窓口へ戻っていかれました。
 更に待つこと20分ほど。
ヒバさんは、鞄に入っているご自分のノートとにらめっこです。この、唇が右側に寄る表情は、考えごとをする時の癖のようですね。そんなヒバさん、大きめの声で「母ちゃん!」と呼ぶ声に顔をほころばせると、ノートを畳みました。
 改札の向こう、ヒバさんより、少し若い男の人。大きく手を振っています。パートナーがお子さんを連れての再婚だったヒバさん、年の近い息子さんがいらっしゃるんです。頼んだ物を届けに来てくれたんでしょうか?
 ヒバさんがノートをしまっている間に、息子さんは改札を通過しています。そして、「お待たせ!」と、お財布と私物の携帯端末が入ったフリーザーバッグを渡してくれました。
「母ちゃん、財布ぐらい持ってなよ」
「今日はたまたまよ。ありがとね」
 息子さんは、胸のあたりで軽く手を振ります。
「どうせ保育園の通り道だし、気にしないでよ」
不服そうに眉を寄せたヒバさんに、息子さんは呆れた様子で笑います。
「お礼がしたいなら、週末遊びに来て。あいつら喜ぶから」
「分かった」
険しかったヒバさんの顔が、少し柔らかくなりました。
「じゃあ、俺行くから。気を付けてね」
「遊飛くんも」
車でパートナーとお子さんを待たせているから、と、息子さんは忙しなく改札を出て行きました。その後ろ姿を見送ってから、ヒバさんは、有人窓口で清算をして改札を出ます。
いつものヒバさんは、ここで乗り換えるのですが……今は、足早に駅警察の交番に向かいながら、携帯端末を操作しています。これは大事なことなのですが、歩きながらの端末操作は危ないので、みなさんは気を付けてくださいね。
 さて。歩きながら、社内ウェブにゲストアカウントでアクセスしたヒバさん。失くした端末の位置情報を確認しますが、該当端末の電源が切れているため分かりませんでした。業務監査部から端末不正利用の通知もありません。応急措置として、端末を再ロックするよう、遠隔で設定を更新します。
 次に、社内用のテキストチャットで、上司の方へ遅刻する旨と、端末を紛失した旨報告し、最初の面談に間に合わないので、クライアントにリスケジュールをお願いしています。
 ヒバさんのお勤め先は、AXE【アクス:医療義肢メーカー】の、BtoB契約を扱うマーケティング部門のカウンセリング課です。資格者であることを活かして、契約先の企業で、体の一部を自社製品へ置き換えた方の、メンタルケアを行っています。提携先へ出向したり、ミラー式【主に一対一の、オンラインでの講義、カウンセリング、問診等を指す】でお話を聞くのがお仕事です。
 扱う情報は通常のカウンセリングより多岐ですし、当たり前ですが、相談者の繊細な個人情報も扱います。ヒバさんの社用端末は、その個人情報を閲覧できます。ヒバさんのお顔が険しいのは、そのためでした。
 端末がなくなったと分かってから、もう一時間近く。うちの詳しいスタッフによれば、一時間経つと発見は絶望的、とのことですが……
 それでも、構内の交番に付いたヒバさんは、駅員さんと似た制服の駅警察の方に盗難届を提出します。
 お勤め先情報、携帯端末の形状、初期画面には息子さんの結婚式の写真が使われていること、乗ってきた路線などを話し終えて、会社へ向かう路線に乗る頃には、始業時間を過ぎていました。
 私用の端末で再度社内ネットワークを確認すると、上席の方から、クライアントの面談は1時間後ろにずらしたと返事がありました。
「そういうんじゃないな……」
モノレールの座席に座るヒバさん、思わず出た声を咳払いで誤魔化しました。29
【P-PingOZ】
 P-PingOZ、今日の主人公は、貸与品の携帯端末を失くしてしまったヒバさんです。駅で色々の手続きを済ませたヒバさんは、人工島の中央、すいぎょく地区のヒスイ通り駅を飛び出しました。
 ヒスイ通りは、ビル同士を結ぶ連絡通路がウェブ状に発達したオフィス街です。夜は通路がグリーンにライトアップされて、真上から撮影すると、綺麗なエメラルドのネックレスのように見えるんですって。その分少し複雑で、初めて来る方は、だいたい迷うそうです。
 そこをぐんぐんと進むヒバさん、早足でAXE本社ビルへ飛び込みました。入館ゲート横のカウンターに詰める、警備スタッフさんに一直線で向かいました。
「おはようございます」
「あ! おはようございます!」
 明るいブラウンのまとめ髪をベレー帽に押し込み、グレーと白でまとまった警備会社の制服がお似合いの若い女性です。顔見知りらしく、ヒバさんを見て、大きな口を開けて笑いかけてくれました。
 ヒバさん、ご自分のお財布からカード型の社員証を抜き出すと、カウンター越し、警備スタッフさんの方へ押し出しました。「すみません。キー権限つけて貰えますか」社用端末に必要なアクセス権限が全て入っているため、アナログ社員証は万一のバックアップとして使用されます。34
 記録のためにと理由を聞かれたヒバさんが簡単に事情を説明します。警備スタッフさん、「あー……忘れたんじゃないのか……」と、残念そうに声をあげました。
「ごめんなさい。一旦、紛失で記録取りますね。生体【生体情報】貰うので、目、閉じないでくださーい」
 手際よく社員証をリーダーに差し込んだ警備スタッフさんは、流れるようにヒバさんのお顔にタブレットを近づけます。虹彩情報を読み取り、お名前や所属を口頭で照合し、問題ない事が確認されます。
「どうぞ。12時間有効です」
 ヒバさんの社員証が戻ってきます。これで、アナログ社員証に、今日だけデジタル社員証と同様の権限が付与されました。
「見つかったとか、忘れただけなら、後で人事さんに申請してください。スコアのマイナス量が減ります」
「へえ」
 ヒバさん、興味深そうに瞬きしました。
「良い事聞きました。ありがとうございます」
 ヒバさん、軽いおじぎをしてからゲートへ向かいます。「いってらっしゃい!」の声を受け、社員証をリーダーにかざしてエレベーターに乗り込みました。
 目的階で降りると、ヒバさんから見て右がオフィス、左がミーティングルームです。オフィスに続くガラスの自動ドアを隔ててすぐ、部長さんの座る広いデスクがあります。今の部長さんは、マーケティング部門から出向されてきた女性です。
「おはようございます」
「ん、おはようですー。あ、悪いけど、ミーティングルーム行ってもらえるかなあ。携端【テロップ/携帯端末】の件で、栂さんに聞き取りしたいって人が待ってるんだあ」
 ヒバさんに興味がなさそうにチラリと見る部長さんを気にせず、ヒバさんは「そうですか」と、踵を返します。
 ミーティングルームへ向かうと、中には、社員さんが一人。監査部長の辰星【たつみぼし】さんがヒバさんを迎えます。オフィス天井部にあるカメラの関係で、辰星さんは後姿のみが見えている状況です。
 ヒバさん、驚いたご様子でお辞儀をします。
「どうも……総務の方がいらっしゃるかと」
「おはようございます、栂・グウェン・ヒバさん。重大な個人情報の事故と伺ったので、私がお話を」
 辰星さんは、綿菓子のようなショートヘアを揺らして、椅子にかけるよう促します。ヒバさん、ちらりとオフィスに首を向けてから、黙って硬そうな椅子に腰かけました。
「詳細を伺ってよろしいですか?」
 辰星さんの問いかけに、ヒバさんは、とてもとても苦々しいお顔で、報告します。
「仕事用の携帯端末が紛失、あるいは盗難に遭いました」
「……それは、悪いお知らせですね」
 頬に手を当て、残念そうに言う辰星さん。
「紛失した状況と、対応を教えてください」ヒバさんは、朝からの出来事をなるべく順を追ってお話ししました。辰星さんの質問にも落ち着き払って答えていますが、テーブルの下では、何度か手のひらを開いたり、閉じたりです。
「なるほど、そういう状況だったのですね」
 辰星さんはテーブルに置いてあるプラスチックのケースから、画面を伏せた状態で置かれる携帯端末を手に取りました。背面にAXEのロゴとシリアルナンバーが刻印されています。
 辰星さんは、優雅な手つきで、スイと画面をヒバさんに向けました。
「あなたが落としたのは、こちらの、ご家族の写真が初期画面の携帯端末ですか?」
 ヒバさんの、ゴールドのアイシャドウで飾った目元が大きく開かれます。
「……私の物です。間違いありません。会社に届けた人が?」
 画面と辰星さんへ、交互に視線を向けるヒバさん。辰星さんは端末をもう一度ケースに戻すと、ゆっくりとした拍手をヒバさんへ送りました。
「あの?」
 眉を寄せるヒバさんに、辰星さんは言いました。
「お疲れ様です。モニタリングの結果、あなたは大変実直であり、服務規程にほぼ忠実であると分かりました」
「んっ……ん? それは……?」
 ヒバさんが聞き返しましたが、それはとても丁寧に無視されます。ヒバさんは、切れ長で白目がちの目元を少し細めました。
「社内等級が上がったということです。おめでとうございます。詳細なモニタリング結果については、所属部署にフィードバックします。結果に応じた賞与もありますよ」
 にこやかな様子で言うのは辰星さんです。
「……あの、携帯端末は」
「それでしたら」
 辰星さんは金色の携帯端末が入った同色のジッパーバッグを、ヒバさんに向かって差し出しました。『消毒済み』と書かれたステッカーが貼られています。AXEでは、携帯端末の色が変わるのは、社員のスコアを示します。金色は、一番いいスコアです。
「こちらを。データの移行は済んでいますし、社員証権限が失効次第、鍵として使えるようになります。今後は私的な写真データを転送することは控えてくださいね。違反ですよ」
「はい。え……いえ、そうではなく」
 ヒバさんは尋ねます。
「私の携帯端末は、紛失するまでずっと通勤鞄に入れていました。どのように入手を?」
「それは、現在あなたが所持する情報権限では、お答えできません。ごめんなさい」
 辰星さんは、まるでお茶のお誘いを断るように、軽やかな調子です。
「……そうですか」
 ヒバさんも、表情を崩さずに答えました。
「最後に。これは協力いただいた皆さんにお伝えしているのですが、今回のモニタリングについて、何らかの形で発信が認められた場合、あなたに対して監査部から通達が入ります」
 ヒバさんの閉じた唇が右に動きました。
「私から申し上げることは、これで全てです。ご納得いただけましたか?」
 辰星さんが尋ねます。ヒバさんは、じっと辰星さんを見てから、薄く笑いました。
「……そういう事で結構です。以上でよろしければ退出します」
「お時間を取らせましたね。どうぞ、業務に戻ってください」
 ヒバさんは姿勢を正して顎を上げると、新しい社用端末を手に、一礼して会議室を出て行きます。歩きながら密封された袋を開けて、つるりとした長方形の端末を取り出します。今日のToDoリストを確認すると、失くした時のままみたいです。
「どうだった?」
 通りがかりに部長さんが声をかけてくれます。
「抜き打ちの監査でした」
 ヒバさんは、鞄から取り出したご自分のボトルに、粉末のお茶と、部長席の近くにあるウォーターサーバーのお水を入れながら答えます。
「詳細はお話できませんが」
「問題なかったんだ?」
 ボトルの蓋を閉めて、ヒバさんは中身を振り続けます。
「緊急対応を紙ベースで控えていたので」
 これは、朝、駅で見ていたノートの事ですね。
「へえ。真面目だねえ」
 ヒバさんに、からかうような言葉が投げつけられます。ヒバさんは部長さんに向き直りました。
「真面目にやったなりに尊重される限りにおいて、私は真面目な会社員です」
 ヒバさん、ピシャリと言って一礼します。
「では、クライアント待たせてるので。一時間延ばしていただいてありがとうございました」
 全然、ありがたそうじゃないですね……
 肩に鞄をかけ、お茶の入ったボトルと携帯端末を持ったヒバさん。廊下の両側に連なる、防音完全個室の『診察室』へ向かいます。ドアの横に置かれたボックスの中に私物の鞄を放り込み、アナログ社員証で鍵を開けると中に入ります。
 人がひとり座って作業できる最低限のスペースが確保された、この真っ白なブースが、ヒバさんのオフィスです。
 オフィスチェアに腰かけ、業務用デスクトップ端末に携帯端末を接続させて立ち上げたら業務開始です。ヒバさんの肩が、深呼吸に合わせてゆっくりと上下しました。
 自社開発の通話アプリケーションを起動させると、すぐ最初のクライアントがオンラインになりました。モニタに映るヒバさんには、広く開放的な診察室から話しかけている、ごく自然な背景画像が差し込まれています。
 ヒバさんは、これまでの出来事がなかったような穏やかな態度で、画面越しの面談相手に声をかけます。
「□□さん【プライバシーのため音声加工をしています】おはようございます。お待たせしてすみませんでした」

【スタッフ】ナレーション ドロシー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック
 特別賞与が口座に入るより前に、ヒバさんはAXEを自主退職しました。現在は、別の企業に産業カウンセラーとして働き口が見つかり、そちらでも、真面目に働いていらっしゃるそうですよ。

P-PingOZ 「ヒバさんのおとしもの」 終わり

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