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いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。
今日の舞台は、結婚式。
年の離れた親友のため、スピーチを読み上げる大役を仰せつかった主人公の奮闘をご覧ください。

  P-PingOZ 「きみはともだちだった」 ナレーション:リエフ

 ましろ地区のホテル・スパローにある屋上庭園で、ささやかながら幸福なブライダルレセプションが、山場を迎えようとしています。時刻は午後7時。濃淡さまざまな青や白の紫陽花で彩られた庭園に、夕陽が差し込みます。
 その夕陽がいちばん映えるアーチの前に、二人の人影。
 白いタキシード姿の方が流山三津【ながれやま みつ/女性/43歳/大学教授】さん、青いプリンセスラインのドレスに身を包むのが千萱マリア【ちがや まりあ/女性/24歳/作曲家】さん。お式の主役です。三津さんとマリアさんは、これから、結婚の誓いに真珠をあしらった品物を贈り合うところです。
 太陽と海が重なる日没は、溟渤教【めいぼつ/第02特区で最も広く信仰されている一神教】では異なる二つの世界がひとつになる、という意味が込められ、結婚の象徴なんです。
 そこで、誓いの贈り物をお互いに渡し合うのが、古くからの結婚式です。昔は海で生まれるジュエリーが尊ばれたので、真珠をあしらったものがメジャーだったそうですが、現代では、カップルによって贈り合うものは様々ですね。ペアリングが一般的でしょうか。
 ストリングカルテットのBGMが日没の庭園にしっとりと響く中で、三津さんが音符をあしらったヘアアクセサリーをマリアさんへ、マリアさんがピアスを三津さんへ、それぞれつけてあげています。西日で逆光になっていても、その手つきの優しさが、お二人の心をなにより豊かに語っていました。
 そんなカップルを見守っている、薄紫のゆったりしたセットアップを夕焼けに染めた方が、私たちの主人公。雨桐・ヒル【ユートン・ヒル/29歳/男性/造園業】さんです。胸元に飾られるフェイク紫陽花は濃い青。三津さんの来賓であることを表します。
 進行役であるマリアさんの友人から呼ばれ、雨桐さんは度数の高い清酒の入った小さなグラスを飲み干しました。下ろした長い髪を後ろに捌いて立ち上がると、ゆったりしたシルエットのジャケットから紙製の封筒を抜き取ると、マイクの前へ向かっていきます。
 私たちは、雨桐さんが今日のスピーチ原稿を書き上げるまでの数日を見守ってきました。スピーチが始まる前に、この場に至るまでを、スピーチが始まる前に振り返っていきましょう。

【挙式一週間前】 
『お友達と出会った場所は?』
「八年前。相手の勤め先、朝露大学」
『調べます……調べました。大学の詳細はスピーチに反映させますか?』
「いいえ」
『承知しました。質問を続けます』
 造園業者にお勤めの雨桐さん、事務所から今日の作業場へ向かうトラックの車中で、携帯端末と会話しています。これはスピーチの草稿を作るため、基本情報を対話型の人工知能に入力していらっしゃるんですね。
 他にも、お式の形式や相手の好きな物、触れてはいけない話題などなどを入れ込んでいきます。最後に『私が作成しますか?』と尋ねられますが、雨桐さんは「いいえ」と答えました。
「自分が作るから、ミスを指摘してほしい」
『承知しました』
 自動ブレーキがゆっくり車体を路肩に停めます。大学の授業を終えた後輩の魯アリン【ろ ありん/21歳/女性/造園業・学生】をピックアップするためです。
「ありがとね、雨桐哥(にいさん)」
 そうして乱暴に手動でドアを閉めるアリンさんを、注意するような眼差しで見る雨桐さんです。
 アリンさんは雨桐さんを「にいさん」と呼びますが、これはひいろ地区で年の差がある仲の良い二人がそう呼び交わすものです。
 助手席に飛び乗るアリンさんが作業帽を脱いで尋ねます。
「雨桐哥(にいさん)、それ家でやらないの?」
 携帯端末の画面が見えてしまったようですね。
「親にからかわれる」
 雨桐さん、低く気怠い声でお返事します。
「あー。嫌だよねえ」
 アリンさんもうんざりしたご様子を見せたあと、話題を変えました。
「溟渤の結婚式って出たことないけど、どんな感じ?」
「俺も初めてだから、分かんない」
 雨桐さんとアリンさんは、ひいろ地区出身で、考え方や日常生活は海神教【テロップhai xing/特にひいろ地区で信仰されている多神教】の教えに基づいています。おめでたい色は朝焼けの赤と黄色で、日の出の方がポジティブな言葉です。
 このたび雨桐さんが参列する結婚式は、ドレスコードも、おめでたい席で避けた方が良いことも違います。
「庭も初めて作るし」
「私も教授の庭作るの手伝いたかった」
 朝露大学で三津さんの教え子でもあるアリンさんは、羨むように口を尖らせて、鞄からタブレットとヘッドホンを取り出しました。
「授業聞いてるから、現場着くまでスピーチの原稿作ってていいよ」
「アリンに聞かせるのも恥ずかしいんだよ」
 働きながら大学に通っているアリンさんは、お仕事の隙間時間で欠席した授業のアーカイブをご覧になっているようです。
「大丈夫、私集中すると全然聞こえないから」
「そういうことなら」と、運転をフルオートに切り替えて、雨桐さんは携帯端末を手に取ります。
「ご紹介に預かりましたとか、言った方がいいわけ……?」
『それは式の形によります』
 頼んでいないのに答えてくださる人工知能に向かって、雨桐さんは、先が思いやられるな……と呟きました。

【挙式三日前】
 今日はお仕事がお休みの雨桐さんは、自家用の小型自動車でご自宅から東を目指していました。道すがら、ぼそぼそとスピーチ原稿を読みあげて、「お二人の新しい船出の幸福を祈っています」と結んで、数秒。ハンドル部分に固定していた携帯端末からスピーチの解析結果が出ます。
『必ず訂正が必要な部分が四か所、口語文語混じりが十か所、単語の誤用が三か所ありました』
 信号でブレーキを踏んだ雨桐さん、呻き声を上げてハンドルに上半身を預けます。
「要訂正箇所だけ教えてくれる?」
『まず、溟渤の結婚式においては、夜明けより夕陽の方が表現としては的確です。同じく、草木より海の美しい物に例える方が表現として的確です。また、健康を祈念するのは事前登録情報と照らし合わせて適切ではありません』
 矢継ぎ早に指摘された雨桐さんの青みがかった黒い目が携帯端末を睨みます。
『最後に、出会ってから八年、ウニと海鳥のように喧嘩ばかりしていた俺たちが、の部分』
「そこだめなのか? 溟渤の話だと、第一印象最悪でも友達になるんじゃないの?」
 今諳んじる原稿のファイル名は『スピーチ_05』。色々と直されたようですが……
『説話においてその二者は恋人になります』
 雨桐さん、目を向いて携帯端末を凝視しました。
「……ありがとう」
『どういたしまして。用法が曖昧な比喩は使用しないことをお勧めします』
「そうします」
 律儀に返事した雨桐さん、危ないとこだった、と、絞り出すように呟きました。信号が変わり、目的地すぐそこ、と、ナビシステム音声が告げます。
 駅からゆるいカーブを描く道を運転して行くと、うつぶし地区の『職人通り』です。時間貸しの駐車場に車を停めた雨桐さんは、背中を丸めると携帯端末の地図を見ながらしばらく歩いて、「手紙屋」の看板がかかるお店の前で立ち止まりました。
 携帯端末で何かを確認なさると、背の高い体を折り曲げドアをくぐりました。
 フィラメント風の丸い電球が幾つもぶら下がるお店はさほど広くなく、今ではすっかり見かけない紙製品のレターセットや物理ポストカードが並びます。電球を避けて、雨桐さんはレジのお爺さんに声をかけます。
「どうも」
 片目にルーペをインプラントしたご老人が顔を上げました。「代書か?」カウンターの上には、『各種代書』『行政書士資格あります』の文字。
「いいえ」
 雨桐さんは、携帯端末の画面を操作すると、お爺さんに見せました。
「渤式の結婚式で使う、手紙の道具をここで扱ってるって聞いたから」
 左目のルーペをガチャガチャと動かしたお爺さんは、画面を見て「なるほど」と頷きました。
「珍しいね。古式かい」
「そこもよく分かってなくて。水に溶ける紙でスピーチの原稿を書いてほしいって」
「そんなら古式だな」
 よっこらせと立ち上がったお爺さん、陳列棚から、鯨のつがいが描かれた、淡い青色のレターセットを取り出します。
「古い結婚式の形だよ。誓紙を溶かす水桶があるから、読み終わった手紙そこに入れるんだ。水溶性の紙を使う」
 溟渤教では、神様が海底におわします。結婚式やそのレセプションでは、宣誓書の写しを水に溶かしたり、海に流して神様にご報告するのがならわしです。「ふうん」手に取ったレターセットをお店のライトに透かしてみたり、物珍しげに眺める雨桐さん。
「じゃあ、これにするよ」
「書き損じが直せないから、予備もあった方がいいよ」
 抜け目のないお爺さんのお勧めどおり、雨桐さんはレターセットを三つと、夜の海色をしたペンを買い求めます。
「あの、俺、溟渤の結婚式初めてで。スピーチってなに書いたらいいかな」
「そんなもん、人によるわな」
 お爺さんは商品を袋詰めして雨桐さんに渡しながら答えました。
「礼儀守って、敬意払って、祝いの言葉に嘘がなきゃいいのさ」
 袋を受け取った雨桐さん、「どうも。参考になった」と軽くお辞儀して、手紙屋さんを後にします。
 お店を出た雨桐さん、深いため息をついてその場に屈みました。レターセットが地面で汚れないように捧げ持つ姿は、なにか祈るようにも見えました。

【挙式前日】
 フェイク紫陽花をかんざし代わりに長い黒髪をまとめ、今日はフォーマルなユニフォームの黒いシャツとスラックスの雨桐さん、今はホテル・スパローの屋上庭園にいらっしゃいます。
 雨桐さんの友人、三津さんのご希望で、式場になるお庭のデザインを雨桐さんが請負っているのです。固定されているフェイク植物たちの隙間に、雨桐さんの職場から持ち出した紫陽花を使って、品よく可憐な雰囲気に仕上げます。紫陽花が多く使われるのは、この植物が、結婚や家族の象徴だからですね。
 長く花をつけること、花が身を寄せ合うように見えること、色合いも私たちのオズではおめでたいこと。紫陽花が綺麗な季節、ツユクサ月【配信地域では6月ごろを指す】の結婚式が多いのは、そういう理由でしょうか。
 もともと商業施設の休憩スペースやアトリウムの造園が得意な雨桐さんですので、お仕事自体はすいすいと進みました。今はお庭の設営が終わったので作業に使っていた脚立に腰かけています。この後、テーブルグリーンを置くまで少しの休憩といったところ。その口元は、小さく動いています。
「こんにちは、雨桐さん。お疲れ様です」
 同僚のみなさんと少し離れたところで明日の練習をしていた雨桐さんはそっと、片側だけつけていたワイヤレスイヤホンを外しました。三津さんのパートナーであるマリアさんがいらっしゃいました。
「差し入れです」
 階下のショップで売られる、お花のシロップで味をつけた炭酸水を渡されます。
「いいのに。明日の準備とかあるでしょ」
 マリアさんたちは今、下の階に前入りで宿泊されているそうです。
「お式の前に、ゆっくり見たくて」
「三津にいさんは?」
 雨桐さんが尋ねると、「明日の品物を受け取りに」と、マリアさん。式で贈り合うジュエリーのことですね。「そう」雨桐さんはぎこちない笑顔を浮かべます。
「よかったら、あとで連絡してあげてください。あの人朝から黙っちゃって。緊張しているみたい」
「うそでしょ」
 驚いた表情を作る雨桐さん。
「あの人黙ることあるんだ。知らなかった」
「雨桐さんにも知らないことあるんですね」
「あるよ。そりゃ」
「きっと、雨桐さんしか知らない三津さんもいますね」
 お庭を見渡すマリアさんの綺麗なブロンドを留めるスカーフが、ゆるやかに揺れました。
「お花、真ん中ほど色が薄いんですね。きれい」
「だって、一番きれいな人が真ん中に座るだろ」
 雨桐さんは意味ありげな微笑みでマリアさんに視線を向けました。
「……からかわないでください」
 頬をばら色に染めたマリアさんは、レースの手袋で覆われた左手を頬に添えてはにかみます。その手袋とブラウスの隙間から、チタンのフレームがちらりと覗きました。
 音大で学んでいたマリアさん、数年前に事故で義手になった際マッチングがうまく行かず、演奏家の夢を諦めました。今も後遺症で義手が上手く動かなかったり、熱を出してしまうそうです。
「からかってない。あの人がさ、マリアさんがとびきり美しくなるように、って言うんだ」
「いやだ、言いそう!」
 はにかんだまま、マリアさんは雨桐さんが譲った脚立に腰かけます。
「愛情表現がすごいから、三津にいさん」
「はい。でも、あの人の、そういうところが好きで一緒にいることにしたんです」
「うん」
 庭園の飾りタイルに直接座って、雨桐さんは炭酸水のボトルを開けました。
 「三津さんとは事故の後、だいぶ塞いでいた時期に知り合って。とても大事にしてもらったんです。夜中に来てくれたり……大丈夫ですか?!」
 雨桐さんが飲みかけの炭酸水で咳き込んでいます。
「あれ……あれ、あなただったんだな」
 落ち着いた雨桐さんが、片手を地面について息をつきました。
「夜中に通話で叩き起こされて、あの人ましろ地区に送って、朝方まで駐車場で寝て仕事行ってた時期があって」
 それを聞いたマリアさんが両手で顔を覆います。
「変だと思っていたんですけど、あの人、何も言わなかったから……」
 何度もごめんなさいと繰り返すマリアさんに、「怒ってはいないから。あの人がそこまで入れ込んでた人は、俺が知る八年であなただけだよって話」と雨桐さん。
 マリアさんがそれを聞いて、照れ隠しなのか、可愛らしい眉を吊り上げます。
「も、もう絶対そんなことさせませんからね! 雨桐さんをそんな使い方したら、私が怒ります!」
 そんなマリアさんを眩しそうに見て、雨桐さんは笑いました。
「いい子だね。今の話、明日使ってもいい?」
「それは……はい、私は大丈夫です」
「ありがとう。今日話せてよかった。三津にいさんを頼むよ」

 ……さて、カメラを今に戻しますと、緊張した面持ちでマイクの前に立つ雨桐さんが映っています。

 三津さんの友人代表としてご紹介があり、『三津さんとマリアさんへ』と書かれた薄青い封筒から、便箋を抜き取りました。少し震えた息を吸って、話し始めます。
「随分若造が出てきて、驚きましたか。おれは雨桐と言って、三津さんの大学にも出入りしている造園業者の人間です。今日の式場も手伝いました」
 マリアさんのご友人から拍手が起こって、どうも、と、雨桐さんは髪に指を絡めます。
「三津さん、大学でが古い溟渤の説話を研究してる人なんですけど、色んなことに興味がある人で。それは良いところだと思うんですが、納得するまでどうして、なんで、って聞いてくるんですよね。二歳児か? ってぐらい」
 そこで、三津さんをちらりと見ます。
「で、植え替えの仕事中だっていうのに、俺の同期に構内で延々絡んできて半泣きにさせたの。それで、いい加減にしてくれませんって、わりと本気でキレたのが出会いです」
 会場が少しの笑いで満ちました。
「そこから十年近い付き合いになるなんてね。分からないものですね」
 かさ、と、便箋が入れ替わる音。
「歳はだいぶ違うんですけど、俺はドライブが好きだったのと、三津さんは、あちこち行くのが好きで、利害も一致したんで色々なところに行きました。夕飯だけ食べに空港に行って、そのまま魚釣ってみたいって言うから道具積んで夜釣り行ったり」
 雨桐さんが楽しかったよね、と言えば、三津さんは切れ長の目を細めます。お二人の視線には思い出が宿っているようでした。
「そしたら、夜中に叩き起こされて、僕の友達が大変なんだ。連れて行ってくれ、ですよ」
 主賓の席に座っていた三津さんが「きみ、それは」と、身じろぎしました。
「三津さん、マリアさんに格好つけたくて俺のこと馬車がわりにしてたっていうのが、つい昨日分かりました」
 三津さんがヤケのように背の高いグラスに入った葡萄酒を飲み干しました。
「こっちは車中泊してから出勤してたんだぞ。それでも付き合ってたのは俺だけど」
「悪かったって」と謝る三津さんに、また会場から温かい笑い声。
「本当だな? それで……なんでそんな事してたのかって、自分はずっと、そういう三津にいさんに、なんというか……世界を広げて貰ったような気がしたんです。めちゃくちゃ言うけど、それは大事な人のためなの知ってるし」
 最後の便箋が捲られます。
「出不精で他人と連絡取らないタイプの俺を知らないところに連れて行ってくれたのは、この人だったので。三津さんのおかげで俺の世界が豊かになったみたいに、マリアさんの心に差し込む、綺麗な夕陽であってください」
 ゆっくり会場を見渡した雨桐さんは息継ぎをして、マリアさんの方に首を傾けます。
「マリアさんとも少しお話ができて、この人なら、きっと三津さんのこと、程よく叱って、程よく甘やかしてくれるだろうと思いました。三津さんが俺を使うほど大好きなんだって、自信持っていいよ。三津さん。マリアさん本当にいい人だから、あんまりないがしろにしちゃだめだよ」
 夕陽が美しく差し込む庭園に、雨桐さんの落ち着いた声がゆっくりと響きました。
「二人の新たな船出が、穏やかであることを願うばかりです。結婚おめでとう。二人で幸せになるんだよ」

 一礼した雨桐さんを、席を立った三津さんが強くハグします。やめなよ、と苦笑いした雨桐さんが畳んだ四枚つづりのお手紙は、その後銀の水桶に浸されて、溟渤の神様に捧げられました。
 幸せを願う言葉たちは、オレンジ色の入日に輝きながら溶けて消えていきました。

【スタッフ】ナレーション リエフ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

 夜の帳が降りたら、お式は一度幕引きになります。暗くなったらカップルたちの時間になるためです。カップルは退場し、あとは二時間ほど参列者たちのアフターパーティーへ……というのが、この季節のスタンダードなお式の流れです。
 三津さんとマリアさんを見送って、雨桐さんはテーブルから離れます。庭園の片隅に隠れるように置かれた喫煙スペースで、胸ポケットからもう一通「哥哥(にいさんへ)」と書かれた封筒を出しました。
 誰もいないのを確認し、雨桐さんはライターで封筒に火を点けて、円筒型をした灰皿にそっと置きます。
「俺がクソ意気地なしでよかったよ」
 呟く雨桐さんの寂しそうな微笑みが、彼の気持ちを灰に変える炎に揺れました。

 燃やす、という行為は、雨桐さんの信じる海星では弔いにあたります。

  P-PingOZ 「きみはともだちだった」 終わり

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主人公:雨桐 ヒル(男性/29歳/造園業)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

さて、今日の主人公はこの男の子。エルモ・ヴォルペ少年、御年6歳【エルモ・ヴォルペ/6歳/男性/学生】。

年末のユルんだ陽気さ漂う商店街を、派手な水色の毛糸帽子、同じ色のダウンコートの冬支度で歩いている。背中にはキツネの顔をかたどったバックパック。首には防犯ブザーつきの携帯端末をさげてる。

少年、白いほっぺを真っ赤にさせて、ブツブツ繰り返すのは「お魚、新しい年のやつ。赤いやつください」

このエルモ少年、この年の瀬に、なんとおつかいデビューする。人の目がある商店街とはいえ、子どもひとりじゃ危ないんじゃないかって?

大丈夫。まあ見てなって。

  P-PingOZ「絶対あんぜんおつかい録」 ナレーション/山中カシオ

 ひいろ地区、コマドリ横丁。海沿いのアーケード商店街で、この辺では珍しい、生魚を売ってる魚屋があったり、成型食の専門店が並ぶ。地元の台所みたいな場所なんだけど、ホリデイシーズンは特に繁盛するんだ。
 オズだとホリデーシーズンに、魚か、魚の形の物を食べるっていう習慣がある。起源には色んな説があるけど、オズではお祝い事っていったら豪華な魚料理が定番で、コマドリ横丁には、魚も、魚の形の物も揃ってるってわけ。

 ここで、テキストアーカイブで見る人向けの説明なんだけど、オズの食品って、豆系のタンパク質をベースに諸々を混ぜ込んで、立体印刷させるのが普通なんだ。
 えーと、そうだな……例えば、きみが、ニンジンとジャガイモとベーコンでスープを作るとするじゃない。そっちだと、野菜とかお肉を切ったり、カット済みのを買ったりするって聞いたけど、こっちだと、食べやすい形に出力された成型食品なのよ。
 使い道によって形は豊富だけど、ベーシックなのはキューブか、シート。本物との味の違いは、本物を知らないから、おれは分かんない。元の食品独特の味……甘いとか、苦いとかは、再現されてるって聞いてるよ。こういう成型食品は、大手メーカーの名前を取ってブリック食【字幕/Bricklebrit(ブリックルブリット)成型食品の業界トップシェア企業】、立体印刷で作るから、印刷食とも呼ばれてる。以上、説明はおしまい。

 ここ、コマドリ横丁の成型食屋はジャンルが広くて、家庭料理で使う食材は一通り揃うし、キノコの成型食なんて珍しいものもある。この時期は、魚型の成型食だけじゃなくて、クジラ【溟渤教の神使とされる大型の哺乳類】とか、縁起のいいメッセージの形が人気。
 さてエルモ少年に話を戻そう。今は、色々な露店や成型食の見本をゆっくりと眺めてる。アーケードの中は、今年のイヤーカラーと来年のイヤーカラー、紫と赤で飾り付けられてるね。二色のバルーンやタッセルガーランドの隙間を、横丁の名前にもなってるコマドリ型のカバーをつけたドローンが防犯を呼びかけながら飛んで、開店直後の店々は、呼び込みも元気がいい。
 その呼び込みの誘惑に負けたエルモくん、たまらずフードトラックで包子をお買い上げ。親から預かった革袋【かわぶくろ/使い捨てクレジットカード全般を指す】かざして決済する。
 包子は軽食の花形だから、ひいろ地区だと色んな街角で売ってるんだ。よくあるやつは、ソイミートをベースにした餡に、お気持ち程度に豚のエキスが混ざってる。エルモ少年は大丈夫みたいだけど、体質とか主義で食べれないものがあるなら、ちゃんとお店の人の説明か、成分表のQRを読むんだよ。
 店主らしい、眼鏡に口ひげのおじさんが渡してくれた包子を、手袋を外して受け取る。それから、小さな口を目いっぱい開けて、一口ばくり。
 あ、ああー……熱かったみたいだねえ。口を開けてハフハフと空気を送り込むエルモ少年を見て、お店の人がお水も渡してくれた。
 ところでエルモ少年、それ、今リュックにしまったその革袋よ。お買い物にって渡されたやつだよね? 買い食いと歩き食いはコマドリ横丁最高の楽しみ方だけど、おつかいに来てるの忘れてない?
「お家の人は?」
 フードトラックのおじさん、顔見知りなのかな。いいタイミングで声かけてくれた。エルモ少年、お水を飲み干してから返事をする。
「今はエルモだけ! お買い物したら、犬のところでパパと待ち合わせ」
「そう。なに買うの?」
「あかいお魚。新しい年のやつで、本物のやつ」
 おじさん、渡し口から身を乗り出して空になったコップを受け取ると、そのまま、エルモ少年から向かって左方向を指さした。
「それなら、あっちだね。道覚えてる?」
 少年は元気よく鼻から息を吐くと頷いた。
「ゆっくり食べていきな。魚逃げないから」
「うん」
 うんって言いながら、エルモ少年は元気よく包子を食べ食べ歩きだしちゃう。フードトラックのおじさん、慌てて受け渡し口から身を乗り出した。「早く早く」小声で急かすと、トラックの物陰で様子を伺っていたお姉ちゃんが、エルモ少年を追いかける。
 さて、見てて気が付いた人もいると思うんだけど、エルモ少年の後をつけている大人が何人かいる。この人たちは商店街でお店を持ってる人たちで、エルモ少年が無事に使命を果たすまで、付かず離れずで見守るスタッフだ。
 あまり知られてないんだけど、コマドリ横丁商工会には、子どもの買い物デビューを助けるサービスがある。保護者が銀貨が30入った革袋を買って、それを持たせてコマドリ横丁でお買い物をしてもらうんだ。
 その道中を商工会の大人がしっかり助けてあげて、保護者は商工会議所で、スタッフの撮影した映像とか、防犯カメラでお子さんの様子を確認してるってわけ。お買い物が終わると、お家の人と合流する仕組み。
 だから、今エルモ少年はひとりのお買い物を満喫してるようで、横丁ぐるみで見守られてるんだ。ゴールになる魚屋さんでも、店番のお姉ちゃんが店先をウロウロして、エルモくんが来るのを待ち受けてる。
 でも、そういう大人の思惑をよそに好き勝手楽しむのが、お子さんの特権ってやつなので。歩き出したと思ったら路肩のベンチに座って包子を平らげたエルモ少年、次の目標を定め、ベンチを飛び降りる。周囲の大人たちがアイコンタクトを取って、気が付かれないように一緒に動き出した。

◆

 さて、P-PingOZ今日の主人公は、初めてひとりで年越しのごちそうを買いにきたエルモ・ヴォルペ少年。コマドリ横丁で本命のお魚を買う前にあちこち寄り道して、目的地までの数百メートルをマイペースに探検してる。
 目下の興味は、印刷食のお菓子屋さん。透明なケースの内側には、動物や空想の生き物の形に出力された細工飴や焼き菓子、カラフルな幾何学型をした砂糖菓子。ここは印刷用のデータと素材を抱き合わせで売ってるから、それを使えば、家にプリンタのある人なら再現できる。印刷食の良いところは、基本的に見本と同じものが手に入って、複製もできるってことだね。
 エルモ少年は、クジラの形を骨格が透ける飴細工をひとつ、それから、赤と紫で印刷された幾何学砂糖菓子の袋をふたつ掴んで、お店のおばあちゃんに渡す。ここでも、さっきの革袋をかざしてお支払い。
「食べてくの?」
 おばあちゃんがニコニコ尋ねると、「こっちはね、お土産」って、砂糖菓子を背中のバックパックに丁寧にしまう。
「これはね、エルモが食べるぶん」
 その場でフィルムを剥がして、ゆっくり骨の数を数えている。
「クジラは神様のお使いでね、遠い南の海に住んでるんだって」
 お気に召したらしいエルモ少年はそう言って、クジラを頭から口に突っ込んだ。
「いい子にしてたら、いつかクジラが海の底にあるお城に連れてってくれるってママが言ってたけど、お城の人たちはどうやって息してるか知ってる?」
「どうだろうねえ」
 おばあちゃん、適当にあしらって「おつかいじゃないのかい?」と話を本筋に戻してあげる。
「そうだ! お魚屋さん!」
「もうちょっと行くとあるよ。頑張ってね」
 エルモ少年はリュックを背負い直して、お菓子屋さんから旅立った。
 クジラの飴をゆっくり溶かしながら、エルモ少年は地元のアーティストが作ったねじれたアナログ時計のオブジェをじっくり眺める。
 そうかと思ったら、見守りのスタッフを一瞬振りきって、犬を祀った廟に立ち寄って革袋で最小金額を投げ入れる。追いついたおじいちゃんが真横に立つ。少年は両手を合わせ、何かむにゃむにゃとお祈りする。この廟が、買い物終わりに待ち合わせする所だね。ここは、大昔にコマドリ横丁にいた犬が色々あって神様になって、観光スポットになってるところ。ご利益は、ペット関係円満、水泳、試験の合格、だったかな。
 エルモ少年の味わっていたクジラの飴がすっかり小さくなった頃、ようやく目的地が見えてきた。アーケードの南端に大きな店構え。店内はホリデーシーズンをテーマにした音楽のインストアレンジが流れてて、保冷剤や氷の詰まったショーケースに、今朝卸してきたばかりの魚が並んでいる。
 店先に立つ、ネオングリーンの防水エプロンをつけて、コーンロウにエプロンと同じ色のエクステを編み込んだお姉ちゃんが、安心した風に出迎えた。
「いらっしゃい」
「あの! これ! 全部本物ですか?」
 あらま。練習したセリフ全部飛んじゃった。
「本物だよ」
 エルモ少年、うっとりと息をついて、鱗のキラキラしたのとか、ぎょろっとした目玉だとかを屈み込んで眺める。海の生き物が好きなのかな。
「魚初めて見る?」
 エルモ少年は元気よく首を縦に振った。帽子のてっぺんについたボンボンが揺れる。
「すごいね。これみんな食べられるお魚でしょ」
 指をさしながら魚の名前を次々にあげて、噛み締めるみたいにショーケースに張り付いた。オズの水族館、アートっぽい所しかないもんね。
 気のすむまでお魚を堪能したエルモ少年、膝を伸ばして、小ぶりな鯛を指さす。
「お魚、新年のやつ、赤いのください」
 覚えたことちゃんと言えたね。よかった。
「うん。ちょっと待ってな」
 お姉さんが丁寧に保冷剤を敷いたケースに入れてくれる。お会計、とお姉さんから言われて、エルモ少年、革袋を読み取り機にかざして……

BEEEP

 残高不足のアラートが、無慈悲に鳴った。なにが起きたのか分からないって顔で、エルモ少年は大きなライトブラウンの目を、お姉さんに向ける。
「ええと、ちょっとお金が足りないね」
「足りない」
「このままじゃ買えないってこと」
 えーと。エルモ少年。これはとっても悲しいお話なんだけど、お金って、使うとなくなっちゃうんだよ。
「買えない……?」
 最初に30あった銀貨の行方は、包子と、お菓子と、廟への投げ銭。投げ銭だけ、見てる大人たちの目だと把握できてなかったんだな。
「お家の人から、なんか言われてなかった?」
 バックパックの肩ひもをいじって、何か思い出そうとするエルモ少年。
「それの残りが25になるまでなら、好きな物買ってよかった」
「今いくらか見える?」
「24」
「数字読めて偉いね。でも、このお魚が25するから」
 1足りないんだ、と、お姉さんは指を一本立てる。
「どうしよっか。お家の人に連絡する?」
 魚屋のお姉ちゃんが尋ねると、エルモ少年は目玉がこぼれちゃうんじゃないかってぐらい、目を大きく開いた。
「だめ」
「だめかあ」
「だめ」
 お姉ちゃん、エクステに指を引っ掛けて考える。
「……アタシが持つかぁ?」
 小声で言って、携帯端末でどこかに鳩【はと/電子メッセージ全般を指す】を飛ばすと、店先から上半身だけヒョイと傾け、見守りスタッフさんに目配せ。スタッフさんが助け船を出そうとお店に足を踏み入れかけた、その時。
「あの……ちょっと、待ってほしいです」
 ションボリ背中を丸めてたエルモ少年、なにか閃いた。キツネのバックパックを背中から降ろすと、中を開けてゴソゴソやる。出てきたのは……別の革袋だね。
 背伸びして「足りますか」ってお姉さんへ手渡す。受け取ったお姉さん、読み取り機で残金を確かめる。
「足りるよ。でもこれ、どうしたの?」
「今月のおこづかい」
 おやまあ。
「ほんとは、ゲームの服買うやつなの。でもいいよ。エルモは来年お兄ちゃんになるから」
 ねえ、ちょっと。これ、お家の人、感極まって泣いてるんじゃない?
 お姉さんも、渡された革袋を手に腕組みして、うーん、と唸る。
「使うと残り4になるけど、いいの?」
「うん」
「ほんと?」
「ん!」
 エルモ少年の決心が固いのを確かめると、会計用の端末を操作するお姉さん。
「じゃあ、お兄ちゃんのお金で足りない分払うね」
 不足分を清算し、革袋をエルモ少年に返す。
「はい。お買い上げありがとうございました。空の革袋はアタシが預かるね」
 残金の減った革袋をリュックに片づけるのを見届けてから、お姉さん、魚の入った保冷ケースを丈夫な袋にいれて、少年に手渡す。
「うん!」
「気を付けて持つんだよ。重たいよ」
 エルモ少年は袋を抱き上げた。
「うん!」
「お家の人とはどこで待ち合わせ?」
「えっとね、犬の像のところ。さっきママと弟が元気でってお願いしてきた」
 そういうご利益の犬じゃないんだけど……まあ、いっか。聞いてくれるんじゃない?
「送ろうか? 一人で行ける?」
 お姉ちゃんが膝に手を当ててかがむ。
「だいじょぶ」
 お返事が元気。
「お兄ちゃんになるもんね。頑張れ」
 両手で袋を大事に抱きかかえたエルモ少年、「頑張る」って返事して、袋を抱きかかえたまま、魚屋さんに手を振った。その少し後ろ、ベンチで携帯端末を見ていたお兄ちゃんが、魚屋のお姉ちゃんに片手を挙げると、スッと立ち上がってさりげなく後を追う。
 見届けた魚屋のお姉ちゃんは、ふうと息をついた。店先で助けようとしてくれたスタッフさんが労ってくれる。
「お疲れ。初めてにしては頑張ったよ」
 魚屋のお姉ちゃんは首を振った。
「超過分、あの子に払わせて良かったのかな」
「うちの規約だと、5まではお客さん負担だから平気」
「そう? それならまあ……」
 魚屋のお姉ちゃんは、店先のクッションが乗ったプラスチックケースに腰かけ、腕をうんと伸ばした。
「じゃあ私も戻るね。あとで活動報告書出してもらうから、作っとくんだよ」
「はいよー。お疲れさま」
 大人は大人で、色々とやることがまだ残ってるみたい。
 一方、お兄ちゃんになるエルモ少年。保冷ケースを一生懸命抱き上げて、来た道を戻っている。その後ろを、お兄さんがゆっくり付いていく。待ち合わせ場所の、赤と黄色でできた小さな廟の門の下に、エルモ少年とお揃いのアウターを来た一組のカップルが待っていた。エルモ少年のご両親だ。
「パパー! お買い物できた!」
 ダッシュで体当たりするエルモ少年を、穏やかそうな細身のパパが受け止める。これでゴールだ。ついてきていたお兄さんは、そっとその場を離れた。
 エルモ少年と同じデザインの帽子をかぶったショートカットのママが少年の帽子ごしに撫でる。
「ママの代わりにありがとね、エルモ」
 実はエルモ少年、おなかが大きくなって動くのがつらいって言うママの代わりに、自分がお買い物するって言ってきかなくて。それが今回の冒険のきっかけなんだって。
「渡したお金で足りた?」
 一部始終を分かったうえで、パパがエルモ少年に尋ねる。エルモ少年はパパを見上げる。
「大丈夫だったよ」
 それを聞いて、パパはエルモくんを魚の入ったケースごと抱き上げた。

【スタッフ】ナレーション 山中カシオ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

P-PingOZ「絶対あんぜんおつかい録」 終わり

pp17

主人公:エルモ・ヴォルペ(男性/6歳/学生)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、朝のモノレールでウトウトする女性。編み込んでまとめた黒い髪を崩さないように下を向いて船を漕いでいらっしゃいましたが、目的駅に到着するアナウンスで顔を上げます。
早足でモノレールを降り、鞄の中にあるはずの物を探して……その手が動きを止めました。

 P-PingOZ「ヒバさんのおとしもの」 ナレーション/ドロシー

 もみじの月、朝8時頃のことです。環状モノレール、虹先ターミナル駅。
ひとりの女の人が、もくもくと鞄の中身を取り出していました。こちらが今日の主人公、栂・グウェン・ヒバ【つが・ぐうぇん・ひば/42歳/女性/義肢カウンセラー】さんです。
 改札内の広いアトリウムにある、波のような形のベンチに腰掛けるヒバさん、険しい表情で黄色い鞄の中をあらためています。その真っすぐに結ばれた唇は、ぐいと右に引かれています。
 今では珍しいアナログ筆記具や、飲み物のボトル、読書専用の二つ折り端末など、ヒバさんの隣には荷物がどんどん並べられていきますが、通り過ぎる人たちは、ヒバさんに特に関心を寄せません。他人に興味の薄いのが第02特区の気風ですし、通勤通学の方たちは、そこまで気にするゆとりがありません。
「うーん……」
大きなショールを引きずり出して、最後に鞄を逆さに振ると、ハンカチ、消毒シート、タッチペン三本、ワイヤレスイヤフォンが片方だけ。あとは叩いても揺すっても、なんにも出てきません。
「……困ったね」
 しっかりした眉を歪ませて、ヒバさん呟きます。どうしてこんなにお困りなのでしょう?
 実はヒバさん、会社から貸与された携帯端末を紛失したようなんです。
 特区では、業務に関わる決済に、社用端末や支払いアプリケーションを指定する企業が多くあります。支払い履歴を会社で監視し、不正があれば、すぐ調査が行えるようにです。
なので、ヒバさんも、ご自宅の最寄り駅では、社用の端末を改札にかざしたのですが……
 先ほど逆さに振った鞄からは、その端末も、私物の端末も、お金の入った革袋【使い捨てクレジットカード全般を指す】も、出てきませんでした。
 唸ったヒバさん、細く長く息を吐いて、周囲を見渡し、鞄の中身を丁寧に戻します。それから勢いよく立ち上がって、ローファーを履いた足を大きく動かし、アトリウムを改札に向かって歩き出しました。
 虹先ターミナル駅は、特区の北側から中央のすいぎょく地区に乗り入れる手前の、とても大きな駅です。アトリウムも広々として、白地にプリズムが反射する映像が、壁や床に投影されています。爽やかで、洗練された空間です。
 そのアトリウムの隅に、ずらりと並ぶコンシェルジュ端末たち。ここが、ヒバさんの目的地。公営施設に必ずいるこの端末には、ウィンキーという愛称がついています。
ウィンキーはカメラでヒバさんを感知すると、『お困りですか?』と、性別不詳の合成音声で声をかけました。
「困ってるんですよ」
消毒シートで端末の画面をふき取りながらヒバさん。画面には、「地図を見る」「伝言サービス(有料)」「充電(有料)」「支払い/チャージ」「遺失物」などなど、各種サービスが表示されています。
 ヒバさんは右下の「その他」を、鞄から出したタッチペンでタップします。何度かの画面選択ののち、「駅員を呼ぶ」に辿り着きました。画面と合成音声が『しばらくお待ちください』と告げます。
ウィンキーの言う通りにしばらく待つと、深い緑色をした制服の駅員さんが、迷惑そうにやってきました。
 支払いに使う端末を紛失したと事情を説明したヒバさん、盗難防止のコードで駅員さんと繋がる携帯端末を貸してもらえます。それも丁寧に消毒シートで拭き取ると、少し悩んでから両手で番号を入力して、携帯端末を片耳に当てました。電話のお相手は、ご家族でしょうか。
「ありがとう、助かる! あなたの生体鍵【テロップ:生体認証情報】は残ってるから、それで入って。財布は、多分、リビングに。うん。頼むね。ありがとう」
ヒバさんの声も、ひとり言の時より、いくらか柔らかくなっています。
 電話を終えると、駅員さんに何度もお礼を言って、三枚目の消毒シートで端末を拭き取ってから返します。駅員さんは、ご家族が来たら支払いは有人窓口に来るよう伝え、小走りで窓口へ戻っていかれました。
 更に待つこと20分ほど。
ヒバさんは、鞄に入っているご自分のノートとにらめっこです。この、唇が右側に寄る表情は、考えごとをする時の癖のようですね。そんなヒバさん、大きめの声で「母ちゃん!」と呼ぶ声に顔をほころばせると、ノートを畳みました。
 改札の向こう、ヒバさんより、少し若い男の人。大きく手を振っています。パートナーがお子さんを連れての再婚だったヒバさん、年の近い息子さんがいらっしゃるんです。頼んだ物を届けに来てくれたんでしょうか? 
 ヒバさんがノートをしまっている間に、息子さんは改札を通過しています。そして、「お待たせ!」と、お財布と私物の携帯端末が入ったフリーザーバッグを渡してくれました。
「母ちゃん、財布ぐらい持ってなよ」
「今日はたまたまよ。ありがとね」
 息子さんは、胸のあたりで軽く手を振ります。
「どうせ保育園の通り道だし、気にしないでよ」
不服そうに眉を寄せたヒバさんに、息子さんは呆れた様子で笑います。
「お礼がしたいなら、週末遊びに来て。あいつら喜ぶから」
「分かった」
険しかったヒバさんの顔が、少し柔らかくなりました。
「じゃあ、俺行くから。気を付けてね」
「遊飛くんも」
車でパートナーとお子さんを待たせているから、と、息子さんは忙しなく改札を出て行きました。その後ろ姿を見送ってから、ヒバさんは、有人窓口で清算をして改札を出ます。
いつものヒバさんは、ここで乗り換えるのですが……今は、足早に駅警察の交番に向かいながら、携帯端末を操作しています。これは大事なことなのですが、歩きながらの端末操作は危ないので、みなさんは気を付けてくださいね。
 さて。歩きながら、社内ウェブにゲストアカウントでアクセスしたヒバさん。失くした端末の位置情報を確認しますが、該当端末の電源が切れているため分かりませんでした。業務監査部から端末不正利用の通知もありません。応急措置として、端末を再ロックするよう、遠隔で設定を更新します。
 次に、社内用のテキストチャットで、上司の方へ遅刻する旨と、端末を紛失した旨報告し、最初の面談に間に合わないので、クライアントにリスケジュールをお願いしています。
 ヒバさんのお勤め先は、AXE【アクス:医療義肢メーカー】の、BtoB契約を扱うマーケティング部門のカウンセリング課です。資格者であることを活かして、契約先の企業で、体の一部を自社製品へ置き換えた方の、メンタルケアを行っています。提携先へ出向したり、ミラー式【主に一対一の、オンラインでの講義、カウンセリング、問診等を指す】でお話を聞くのがお仕事です。
 扱う情報は通常のカウンセリングより多岐ですし、当たり前ですが、相談者の繊細な個人情報も扱います。ヒバさんの社用端末は、その個人情報を閲覧できます。ヒバさんのお顔が険しいのは、そのためでした。
 端末がなくなったと分かってから、もう一時間近く。うちの詳しいスタッフによれば、一時間経つと発見は絶望的、とのことですが…… 
 それでも、構内の交番に付いたヒバさんは、駅員さんと似た制服の駅警察の方に盗難届を提出します。
 お勤め先情報、携帯端末の形状、初期画面には息子さんの結婚式の写真が使われていること、乗ってきた路線などを話し終えて、会社へ向かう路線に乗る頃には、始業時間を過ぎていました。
 私用の端末で再度社内ネットワークを確認すると、上席の方から、クライアントの面談は1時間後ろにずらしたと返事がありました。
「そういうんじゃないな……」
モノレールの座席に座るヒバさん、思わず出た声を咳払いで誤魔化しました。29
【P-PingOZ】
 P-PingOZ、今日の主人公は、貸与品の携帯端末を失くしてしまったヒバさんです。駅で色々の手続きを済ませたヒバさんは、人工島の中央、すいぎょく地区のヒスイ通り駅を飛び出しました。
 ヒスイ通りは、ビル同士を結ぶ連絡通路がウェブ状に発達したオフィス街です。夜は通路がグリーンにライトアップされて、真上から撮影すると、綺麗なエメラルドのネックレスのように見えるんですって。その分少し複雑で、初めて来る方は、だいたい迷うそうです。
 そこをぐんぐんと進むヒバさん、早足でAXE本社ビルへ飛び込みました。入館ゲート横のカウンターに詰める、警備スタッフさんに一直線で向かいました。
「おはようございます」
「あ! おはようございます!」
 明るいブラウンのまとめ髪をベレー帽に押し込み、グレーと白でまとまった警備会社の制服がお似合いの若い女性です。顔見知りらしく、ヒバさんを見て、大きな口を開けて笑いかけてくれました。
 ヒバさん、ご自分のお財布からカード型の社員証を抜き出すと、カウンター越し、警備スタッフさんの方へ押し出しました。「すみません。キー権限つけて貰えますか」社用端末に必要なアクセス権限が全て入っているため、アナログ社員証は万一のバックアップとして使用されます。34
 記録のためにと理由を聞かれたヒバさんが簡単に事情を説明します。警備スタッフさん、「あー……忘れたんじゃないのか……」と、残念そうに声をあげました。
「ごめんなさい。一旦、紛失で記録取りますね。生体【生体情報】貰うので、目、閉じないでくださーい」
 手際よく社員証をリーダーに差し込んだ警備スタッフさんは、流れるようにヒバさんのお顔にタブレットを近づけます。虹彩情報を読み取り、お名前や所属を口頭で照合し、問題ない事が確認されます。
「どうぞ。12時間有効です」
 ヒバさんの社員証が戻ってきます。これで、アナログ社員証に、今日だけデジタル社員証と同様の権限が付与されました。
「見つかったとか、忘れただけなら、後で人事さんに申請してください。スコアのマイナス量が減ります」
「へえ」
 ヒバさん、興味深そうに瞬きしました。
「良い事聞きました。ありがとうございます」
 ヒバさん、軽いおじぎをしてからゲートへ向かいます。「いってらっしゃい!」の声を受け、社員証をリーダーにかざしてエレベーターに乗り込みました。
 目的階で降りると、ヒバさんから見て右がオフィス、左がミーティングルームです。オフィスに続くガラスの自動ドアを隔ててすぐ、部長さんの座る広いデスクがあります。今の部長さんは、マーケティング部門から出向されてきた女性です。
「おはようございます」
「ん、おはようですー。あ、悪いけど、ミーティングルーム行ってもらえるかなあ。携端【テロップ/携帯端末】の件で、栂さんに聞き取りしたいって人が待ってるんだあ」
 ヒバさんに興味がなさそうにチラリと見る部長さんを気にせず、ヒバさんは「そうですか」と、踵を返します。
 ミーティングルームへ向かうと、中には、社員さんが一人。監査部長の辰星【たつみぼし】さんがヒバさんを迎えます。オフィス天井部にあるカメラの関係で、辰星さんは後姿のみが見えている状況です。
 ヒバさん、驚いたご様子でお辞儀をします。
「どうも……総務の方がいらっしゃるかと」
「おはようございます、栂・グウェン・ヒバさん。重大な個人情報の事故と伺ったので、私がお話を」
 辰星さんは、綿菓子のようなショートヘアを揺らして、椅子にかけるよう促します。ヒバさん、ちらりとオフィスに首を向けてから、黙って硬そうな椅子に腰かけました。
「詳細を伺ってよろしいですか?」
 辰星さんの問いかけに、ヒバさんは、とてもとても苦々しいお顔で、報告します。
「仕事用の携帯端末が紛失、あるいは盗難に遭いました」
「……それは、悪いお知らせですね」
 頬に手を当て、残念そうに言う辰星さん。
「紛失した状況と、対応を教えてください」ヒバさんは、朝からの出来事をなるべく順を追ってお話ししました。辰星さんの質問にも落ち着き払って答えていますが、テーブルの下では、何度か手のひらを開いたり、閉じたりです。
「なるほど、そういう状況だったのですね」
 辰星さんはテーブルに置いてあるプラスチックのケースから、画面を伏せた状態で置かれる携帯端末を手に取りました。背面にAXEのロゴとシリアルナンバーが刻印されています。
 辰星さんは、優雅な手つきで、スイと画面をヒバさんに向けました。
「あなたが落としたのは、こちらの、ご家族の写真が初期画面の携帯端末ですか?」
 ヒバさんの、ゴールドのアイシャドウで飾った目元が大きく開かれます。
「……私の物です。間違いありません。会社に届けた人が?」
 画面と辰星さんへ、交互に視線を向けるヒバさん。辰星さんは端末をもう一度ケースに戻すと、ゆっくりとした拍手をヒバさんへ送りました。
「あの?」
 眉を寄せるヒバさんに、辰星さんは言いました。
「お疲れ様です。モニタリングの結果、あなたは大変実直であり、服務規程にほぼ忠実であると分かりました」
「んっ……ん? それは……?」
 ヒバさんが聞き返しましたが、それはとても丁寧に無視されます。ヒバさんは、切れ長で白目がちの目元を少し細めました。
「社内等級が上がったということです。おめでとうございます。詳細なモニタリング結果については、所属部署にフィードバックします。結果に応じた賞与もありますよ」
 にこやかな様子で言うのは辰星さんです。
「……あの、携帯端末は」
「それでしたら」
 辰星さんは金色の携帯端末が入った同色のジッパーバッグを、ヒバさんに向かって差し出しました。『消毒済み』と書かれたステッカーが貼られています。AXEでは、携帯端末の色が変わるのは、社員のスコアを示します。金色は、一番いいスコアです。
「こちらを。データの移行は済んでいますし、社員証権限が失効次第、鍵として使えるようになります。今後は私的な写真データを転送することは控えてくださいね。違反ですよ」
「はい。え……いえ、そうではなく」
 ヒバさんは尋ねます。
「私の携帯端末は、紛失するまでずっと通勤鞄に入れていました。どのように入手を?」
「それは、現在あなたが所持する情報権限では、お答えできません。ごめんなさい」
 辰星さんは、まるでお茶のお誘いを断るように、軽やかな調子です。
「……そうですか」
 ヒバさんも、表情を崩さずに答えました。
「最後に。これは協力いただいた皆さんにお伝えしているのですが、今回のモニタリングについて、何らかの形で発信が認められた場合、あなたに対して監査部から通達が入ります」
 ヒバさんの閉じた唇が右に動きました。
「私から申し上げることは、これで全てです。ご納得いただけましたか?」
 辰星さんが尋ねます。ヒバさんは、じっと辰星さんを見てから、薄く笑いました。
「……そういう事で結構です。以上でよろしければ退出します」
「お時間を取らせましたね。どうぞ、業務に戻ってください」
 ヒバさんは姿勢を正して顎を上げると、新しい社用端末を手に、一礼して会議室を出て行きます。歩きながら密封された袋を開けて、つるりとした長方形の端末を取り出します。今日のToDoリストを確認すると、失くした時のままみたいです。
「どうだった?」
 通りがかりに部長さんが声をかけてくれます。
「抜き打ちの監査でした」
 ヒバさんは、鞄から取り出したご自分のボトルに、粉末のお茶と、部長席の近くにあるウォーターサーバーのお水を入れながら答えます。
「詳細はお話できませんが」
「問題なかったんだ?」
 ボトルの蓋を閉めて、ヒバさんは中身を振り続けます。
「緊急対応を紙ベースで控えていたので」
 これは、朝、駅で見ていたノートの事ですね。
「へえ。真面目だねえ」
 ヒバさんに、からかうような言葉が投げつけられます。ヒバさんは部長さんに向き直りました。
「真面目にやったなりに尊重される限りにおいて、私は真面目な会社員です」
 ヒバさん、ピシャリと言って一礼します。
「では、クライアント待たせてるので。一時間延ばしていただいてありがとうございました」
 全然、ありがたそうじゃないですね…… 
 肩に鞄をかけ、お茶の入ったボトルと携帯端末を持ったヒバさん。廊下の両側に連なる、防音完全個室の『診察室』へ向かいます。ドアの横に置かれたボックスの中に私物の鞄を放り込み、アナログ社員証で鍵を開けると中に入ります。
 人がひとり座って作業できる最低限のスペースが確保された、この真っ白なブースが、ヒバさんのオフィスです。
 オフィスチェアに腰かけ、業務用デスクトップ端末に携帯端末を接続させて立ち上げたら業務開始です。ヒバさんの肩が、深呼吸に合わせてゆっくりと上下しました。
 自社開発の通話アプリケーションを起動させると、すぐ最初のクライアントがオンラインになりました。モニタに映るヒバさんには、広く開放的な診察室から話しかけている、ごく自然な背景画像が差し込まれています。
 ヒバさんは、これまでの出来事がなかったような穏やかな態度で、画面越しの面談相手に声をかけます。
「□□さん【プライバシーのため音声加工をしています】おはようございます。お待たせしてすみませんでした」

【スタッフ】ナレーション ドロシー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック
 特別賞与が口座に入るより前に、ヒバさんはAXEを自主退職しました。現在は、別の企業に産業カウンセラーとして働き口が見つかり、そちらでも、真面目に働いていらっしゃるそうですよ。

P-PingOZ 「ヒバさんのおとしもの」 終わり

pp16

主人公:栂・グウェン・ヒバ(女性/42歳/義肢カウンセラー)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

【画面に、第02特区のものではない浜辺の映像。巻貝をかぶった甲殻類が映っている。】
ヤドカリという生き物がいます。自分の物ではない殻を着込んでいる姿は、オズではあまり良い印象を持たれていません。
オズの人が誰かをヤドカリに喩えた時、それは、より強いものを笠に着ている人、誰かに寄生するように生きる人、もしくは、偉そうにふるまう知識人を指しています。
今日の主人公は、大学生。知識の殻にこもる彼らも、ヤドカリと呼ばれます。

  P-PingOZ 「巻貝の中で」 ナレーション/リエフ
​

 みそら地区、朝8時30分の学校街【学校街:専門学校や大学が集中する区画】、朝露大学。冬の遅い陽光が、夜更けに積もった雪を輝かせます。どことなく物寂しいのは、20階建てのキャンパスへ繋がる遊歩道から、大きなケヤキのフェイクツリーが全て撤去されたためでしょうか。
 朝露大学は創立200年以上の私立大学で、特に工学系分野で傑出した研究者を輩出しています。その校風が凝縮されているのが、これからカメラが向かう第二キャンパス10階、Aサークル棟です。Aサークルというのは、インドアの文系サークルや、研究、開発系のサークルを指します。
 さて、サークル棟につきました。白と若く淡い緑で統一されたシンプルな内装、だいぶ年季が入っています。早速ドローン禁止の警告文が投影される白い壁紙を、挑発的にかすめる映像研究会の撮影ドローンに出会いました。
 エレベーター前では、流行語研究部のアンケートが行われ、スタチューパフォーマーを相手にスタンドアップコメディの練習をする人もいます。代替食品再現部が3Dプリンタで出力した生肉の刺身風スイーツが「ご自由にどうぞ」と、談話スペース前のワゴンに並んでいます。
 一限も始まる前から自由と無軌道の境目を楽しむただなかで、談話スペースの丸テーブルを囲む三人の女学生。各々が手にした携帯端末、ラップトップ、AR眼鏡などで、サークル棟をゆっくりと見渡しています。
「うわっ! ベルこれダメだ! 気持ち悪い。見て」
 声を上げてAR眼鏡を外したのが、今日の主人公、魯アリン【ろ・ありん/23歳/女性/人間学部宗教学科3年】さん。先ほどまでご実家の手伝いで、ここの街路樹を撤去していました。がっしりした体格、着古した造園業者のジャケットにも貫禄があります。
 呼ばれて顔を上げたクロウンファッション【クロウン/黒をベースに、複数のテイストをミックスする着こなし】の女の子はイザベル・ジュネさん【15歳/女性/工学部情報工学科4回生】。
「うわあ、確かに大変だあ」
 廃棄基盤を再利用したブレスレットを揺らして、ラップトップのキーを叩きます。
「ソラも見て、これ」
「魯さんの視野ログ? ……やだ、これ。私苦手」
 イザベルさんから転送されたデータを見るや、タブレットをテーブルに伏せたベリーショートの学生さんが、鉄ソラ【19歳/女性/工学部情報工学科1回生】さん。首には蛍光色のマフラーが巻かれています。
 三人が見ているのは、「Weise(ワイゼ)」というARマップアプリケーションが動作した時、対応機器に映る画像の状態です【開発中のため画面にはボカシ処理がかかっています】。アリンさん達は、アプリケーションと同名の「Weise」というサークルで活動しています。
 各学部の有志で立ち上がって以来、20年近く運営されるサークルです。学内の様々な場所に対応機器を向けると、紹介文が表示されるという仕組みで、紹介文やスポットは、毎年学生から公募して更新しています。今は、来年リリースする新バージョンの準備中なんですって。
「ねえ、鉄ちゃん一限じゃない? そろそろ出ないと」
「でも、まだ……」
 アリンさんが、ソラさんから見えない角度でイザベルさんに手振り。
「あー……」
 イザベルさんは小さく頷きました。
「後は片づけるだけだから大丈夫。先輩たちに任せるのだ! マフラー返さなくていいから、ほら」
「じゃあ……あーちゃ、違う、ベル! またお昼ね」
「うん、後でね!」
 イザベルさんが手を振って送り出します。ソラさんが見えなくなってから、イザベルさん、アリンさんに尋ねます。
「ねえ。ベルに何のお話? これやりながらで良い?」
「いいよ」
「ありがと」
 ラップトップでアプリ開発チームのフォーラムをチェックするイザベルさん、首を左右にゆっくり倒して伸ばします。その首が戻る前に、アリンさんが切り出しました。
「あんたと鉄ちゃん、カップルじゃないよね?」
「へぇう?!」
 勢いよく首を戻し、反動に首を押さえるイザベルさん。
「なんでえ?」
「学年離れてるわりに距離近いじゃん。あんた、他人にマフラー貸す人間じゃなかったし。つーか首大丈夫?」
「だいじょぶ。えっと、それでベルたちだけど、そういうんじゃないよ」
 イザベルさん、ラップトップをパタリと閉じます。
「ベルたち、大学より前に別の場所で仲良しで」
 閉じたラップトップを、二枚貝を模したリュックに片づけます。
「だから、特別仲良く見えたのかなあ。アリンの誤解だよ」
 それを聞いたアリンさん、身を乗り出してガッツポーズを作りました。
「それは喜んでる?」
 イザベルさんも身を乗り出しました。大きな青い目がアリンさんをじっと見つめます。
「今度、鉄ちゃんのこと、晩御飯誘いたくてさ」
 シャープな印象の目元を伏せるアリンさん。夕食に誘う、というのは、意中の方へ好意を伝える手段の一つです。
「へえ。ラブがあるんだ」
 アリンさんは身支度して立ち上がります。
「どうだろ。ただの保護欲かも。でも、一緒にいてくれたら楽しいだろうと思う」
「そっか。ベルも、ソラと一緒だと楽しいけど……」
 イザベルさんも、リュックを背負って後に続きます。
「ベル、そういう好きの違いが分かんないからなー。相談とか応援とか、向かないや。ごめんね」
 アリンさん、イザベルさんの手から貸与品のタブレットをつまみ上げます。Weiseの部室に機材の返却へ向かっているようです。アリンさんはサッパリとした様子。
「良いよ別に。応援されようが、ソラが無理なら無理なんだから」
 言われたイザベルさんが目をパチパチさせました。
「アリンが友達いないの、そういうトコだよ」
「ヒラメとカレイ【どちらもよく似ていることを指す慣用句】じゃん」
 イザベルさんが鍵を開けると同時に、アリンさんが扉を押し開けます。
「でも嫌がらないで仲良くしてくるから、ソラの事好きなんだよねえ」
「そう、そこ。あ、片づけたら学務寄るから、ベル先行ってな」
 イザベルさんを先に通してあげたアリンさん、足で部室のドアを閉めました。

​

◆

​

 P-PingOZ、今日は私大の朝露大学にお邪魔しています。お昼も13時を回ったところです。主人公の魯アリンさんは、第二キャンパス7階、人間学部研究棟の、宗教学科流山研究室にいらっしゃいました。
 古すぎて電子化できない紙本や、データ化された紙本のカードケースが詰まった書棚で一回り小さくなった研究室は、入り口からの目隠しに、溟渤教の説話に基づく絵画をあしらったパーテーションで仕切られています。
 その仕切りの裏、背の低い応接セットのソファで、対面のおじいさんと前のめりでお話中。もとは、グループワークに関する相談事が始まりだったのですが……敢えて注釈をつけず、そのままお聞きください。
「寒川の『神秘の帳が殻のごとく』ってあるでしょ。あそこらへんから切り口にするのアリっちゃアリだと思うんすよ」
 入り口を背にして、足を大きく開いて座るのはアリンさん。
「でも、今回の争点だと殻割る方向のがまとまりそう。書いたコード通りに動くなら、それは神秘じゃない」
 こちら、ジア・グッドホープさん【64歳/男性/人間学部宗教学科1回生】。40年以上消防に携わり、退職後に入学された方です。コーヒー色の肌に刻まれた皺が深くなりました。
「そうだな……援用になりそうだけど『命は神になり難い』っていうのもあるんですよ。『遠くにあって煌めく物こそ』っていう。依田だったかな」
 部屋の主、流山教授【流山三津/ながれやま みつ/女性/42歳/大学教授】モニタが並んだ大きなデスクで作業中。時折お二人の様子を見ています。
「あー……アリン待ってくれ。分かんなくなってきたぞ。もしかして、真っ向から扱おうとすると、本論においての神、みたいなとこから始めないとマズい?」
 ジアさんが足を組み替えます。
「だけじゃダメで、色々な信仰の原典に当たるとか……一番は、M/Dがどういう方向で信仰を集めたのかのリサーチ」
 お二人が話しているのは、森【VR空間】に10年以上存在するM/Dという少女アバターに対する信仰です。同じ時間に30人のM/Dが違うフォーラムに現れ、悩める人々にアドバイスをしていて、M/Dに会ったら呪いが解けたように人生が上手く行くのだとか。
「M/Dに関しては、信仰っていうより、全員が共犯関係の虚構を楽しんでるって気もしますし……ああもう、なんでこんな、面倒な話触ることになってんですか」
「持病の通院で休んだらこうなってたんだよ」
 アリンさんもジアさんも、がっくり肩を落としました。
「えー……」
 アリンさん、ウェーブのかかったショートボブを乱暴に掻きました。
「何をどうするかって、決めるのはそのグループですけど、あたしから言えるのは、決めつけないこと、自分の考えも疑ってかかること、ぐらいしかないっすね!」
 ジアさんも諦めたご様子で、ソファに寄りかかりました。
「なんとかケツから考えて誤魔化せねーかと思ったけどダメかあ」
 アリンさんも、背もたれに寄りかかって大きく伸びをします。
「あったり前です。結論ありきの陸目【おかめ/『陸目、沈む船を笑う』という慣用句から転じ、外野の無責任な意見全般を指す】でやるのは感想で、論文じゃねーんですわ。とりあえず、あたしの話よりも、レック教授の現代偶像信仰ですかね。アーカイブで触ると良いと思います」
 ジアさん、すかさずタブレットと老眼鏡を取り出しました。
「誰の何?」
「ああ、不親切でしたね。共有します」
 アリンさんとジアさんがそれぞれ端末を触っていると、流山教授の朗らかな声。
「鉄さん、もういいよ」
 アリンさん、入り口を振り返ります。
「えっ鉄ちゃん?」
 耳を赤くしたソラさんがいらっしゃいました。マフラーはありません。
「どうも。朝、すみませんでした」
「えっ、いつ、いつからいた?」
「M/Dは、みんなで作ってるコンテンツみたいなお話のあたり……?」
「フツーに入ってきて良かったのに!」
「知り合い?」ジアさんがアリンさんに。「サークルの後輩。鉄ちゃん、どうしたの?」
「流山教授に……シス倫の時、これ忘れていかれたので」
 ソラさんがトートから取り出したのは、糸で動かす操り人形でした。
「ああ、僕忘れていましたか。有難うございます」
 流山教授はご自分の作業を中断して、ソラさんから人形を受け取りました。授業の小道具だったようですね。
「鉄さん。せっかくですから、少し休んでいかれますか。粉末ですけどラテも出しましょう。かけていてください」
「良いんですか?」
 教授とアリンさんを交互に見るソラさん。
「教授、お客が来ると嬉しいんだ。甘えていいよ。教授ー、あたしたちも同じやつ」
 アリンさん、ご自分の横を叩いてソラさんを促します。
「じゃあ……」
 恐縮しながら、アリンさんの隣に腰かけるソラさん。
「シス倫ってことは……お嬢ちゃん工学部か?」
 と、ジアさん。流山教授は、シス倫こと、システム倫理序論という授業を工学部で行っています。
「はい。まだ一年目で……」
「いや、いい時に来てくれた」
 首をかしげるソラさんに、アリンさんが仲立ちし、ジアさんとのお話を要約して伝えます。それを聞いて、ソラさんは腕組みしました。
「うーん……私の、印象の話ですけど、M/Dが、溟渤で言う司教さんみたいな人気なの、ライトユーザーの間だけなんです。もうちょっと技術系のフォーラムに行くと、あれは人間かっていう話が主流なので、あんまりお力にはなれないと思います」
 お盆に四人分の保温マグを乗せた教授が、給湯スペースから戻ってきます。全員の前にマグを置き、ジアさんの隣に腰かけました。
「面白そうなので、もう少し詳しく伺っても良いですか?」
「え? ええと、私の分野のお話しかできないですけど……」
 短い髪を触りながら、ソラさんは考え考えお話を始めました。
「……私たち、あ、私と友達の間では、製品のバリエーション、みたいな方向に思考実験してて」
「ベル?」
「です。それで、本当にM/DがAIだとしたら、んー……あの確度での会話は可能だっていうのが友達の結論で」
「つまり、代替可能な程度のものってこと?」
 アリンさんの質問に、ソラさんは控えめに頷きます。
「それに、もし神様って呼ばれるとしたら、何かものすごい、技術を飛び越えた所に行かないとなんですけど……仮にAIじゃなければ、普通に犯罪ですから……」
 アリンさん、ソラさんをじっと見てから、口だけで笑います。
「楽しいじゃん」
「え?」
 ソラさんも、この表情のアリンさんを見た事がなかったのでしょうか。少し困惑した様子です。「いや、ジアさんのグループワークとは全然違う話だけど、古今東西、奇跡って裁けるんだなって」
「いえ、その……あくまで私がこう思うっていう話なので」膝に手を置いて小さくなるソラさん。
「鉄さんはそれで結構ですよ。『そう思う』に踏み込むんで考えるのは僕らの分野です。ジアさんも、分かりました?」
 流山教授に釘を刺された格好のジアさん、肩をすくめました。それから、あちこちに話を飛ばしながら四人のお話は続き、最終的にアリンさんが3限で離席する頃には、アリンさんがイザベルさんと連絡を取り、放課後ジアさんも交えてカフェテラスで会う事になりました。
「あの、サークルの時と違ってびっくりしなかった?」
 講義に向かうアリンさんと、資料室へ行くというソラさん。研究室のある廊下から、階段へ向かいます。
「いえ、他の学部の方と、こんなにお互いのジャンルで話したことがなかったし、楽しかったです。勉強になります」
「引いてない?」
 アリンさんが冗談めかして尋ねます。
「いいえ。ベルも割と、研究の事になるとああなので。普段ああですけど」
 何か思い出すようにソラさんは笑います。
「私、勉強しに来てるので、魯さんとか……グッドホープさんもですけど……そういう人と会えてるの、良かったなって思います」
「……」
 アリンさんの足が止まりました。
「あの?」
 アリンさんを振り返るソラさん。
「ううん。良い子だなあ……って思って」
 階段の丸い採光窓が、午後の光を二人に注いでいます。
「あの」
 アリンさん、大きく息を吸い込みます。
「今度さ、ふたりでご飯行かない?」

​
【スタッフ】ナレーション リエフ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

​

 P-PingOZ「巻貝の中で」終わり

pp15

主人公:魯アリン(女性/22歳/大学生)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、オフィスにお勤めの男性です。大きな会社の小さな部署で働く人の一日を、一緒に覗いていきましょう。


  P-PingOZ 「Good mentor」 ナレーション/ドロシー


 ましろ地区、RCシーサイドヒル、朝8時40分。シーサイドと言うにはやや海から遠いんですけれど……ともあれ、このガラス張りの、直方体が背の低い順三つに並んだ建物の9階から、今日のエピソードは始まります。
 あくびをして、眠そうな青い目を擦りながら社宅の鉄扉を閉じたのが、今日の主人公、石水ハナダ【いわみ-/男性/25歳/会社員】さん。起き掛けのシャワーで生乾きなのでしょうか。栗毛から滴る水が、サンゴ色のボーリングシャツを濡らします。
 ハナダさん、大きなリュックを左肩にかけ、朝ごはんのゼリー飲料を片手に廊下をペタペタと歩いていきます。混雑するエレベーター前を通り過ぎて、そのまま階段を……あれ? 登っていきますね?
 実は、この34階建ての建造物は、RC保険会社の職住一体本社ビルなんです。地下1階から地上7階までが一般の方も利用できる商業施設、8階から14階が社宅と福利厚生スペース、15階が社屋のエントランス、そこから最上階までが業務棟です。
 ハナダさんの事務所は19階。階段を徒歩で8分、あるいは各停エレベーターで50秒。徒歩通勤を選んでいるのは、人ごみを避けてのことです。すれ違う社員さんに首を前に出すような会釈を返し、19階に着いた頃には、ハナダさんのおでこに汗が浮かんでいらっしゃいました。
 あら、ハナダさんったら。誰もいないのを良いことに、ゼリー飲料をくわえて啜りながら、廊下に並ぶ小型ロッカーを指紋認証で開けています。ラップトップなどの入った肩掛けキャリーバッグと業務用携帯端末を引き出し、入れ替えにリュックと私物の携帯端末をしまって、肘で閉めました。
 くわえたアルミパックをブラつかせ、携帯端末を両手で操作しているハナダさん。その横を、「おはようございます」別の課の社員さんがご挨拶。お行儀悪いところを見られてしまったハナダさん、咳払いして振り返ります。
 挨拶をした社員さんはもういらっしゃいません。ハナダさん、背中を丸めると、ゼリー飲料の空き容器を握りつぶし、近くのごみ箱に投げ捨てました。それから、業務用骨伝導イヤホンのネックバンドを首からかけて、一呼吸。業務用携帯端末をドアロックにかざして開錠しました。
 ドアの向こうは、白と茶色と赤でまとまった、自由席型の開けたオフィス。ここが、ハナダさんが勤めるRC保険会社の、お客様サービス窓口4課、通称「きたみ課」で使えるフロアです。先ほど携帯端末で確保した、窓際のデスクへ腰をおちつけたハナダさん。ラップトップを起動させると、首を回しました。
 RC保険会社が扱う商品は、個人向けと法人向けで多岐にわたります。お客様の問い合わせも毎日ひっきりなし。そこで、お客様が自己解決可能なお問合せに対しては、他社と同様にAI社員を導入しています。「きたみ」と「つきよ」という赤毛の若い双子です。
 きたみが男性でテキストチャット対応を、つきよが女性で音声対応を行います。キャラクター設定もあって、それに基づき数回程度の雑談には応じてくれます。その「きたみ」の会話精度と品質向上をはかるのが、ハナダさんの業務です。
 在宅可能なお仕事ですが、社宅に住む条件としてオフィス勤務があるんですって。5人体制の部署で、出勤しているのはハナダさんと直属の課長さんだけです。部署は5人ですが、広報や保険業務の担当とも連携し、実務にあたる方は三倍ぐらいになるんだとか。
 午前中のお仕事は、きたみさんが受けたチャットログの確認です。前日営業締め時間までのログから有人オペレーターへ引き継いだ案件が、きたみ課に転送されてきます。それを出勤人数で頭割りして確認、きたみさんだけで解決できたはずのログに『改善』のラベルをカチカチと貼っていきます。【画面には個人情報、業務上機密保持の観点からぼかし処理を行っています】
 改善の対象は、個人情報に踏み込まないもの、話が込み入っていないもの、誤変換を正しく読み取れなかった、などです。
きたみさんが受けた数千件に対して、有人対応になったものは百件未満です。それなりの精度があります。ハナダさんが開いている部内チャットでは、今日は少ない方というテキスト雑談も行われていますね。そんな話の輪に加わることもなく、一時間ほど地味なお仕事をこなします。
 そのハナダさんが手元に置いた業務用携帯端末から、ぽこん、と、通知音。フキダシ型のテキストメッセージが届いています。『助けてメンター』他社から転職してきた年上の後輩、渡辺ターコイズさんの救難信号です。『変なログがある。通話できる?』
 ハナダさん、骨伝導イヤホンのクリップを耳たぶに挟み、携帯端末で個別通話を入れます。
「石水です。どうしました?」
『ごめんよ、忙しいところ』
 寝ぐせも直さない、リラックスしたTシャツの男性がラップトップに現れます。
「いや。いいですよ全然。タコさんが変って言うなら、本当に変なんでしょ」
 ターコイズさんは転職間もない方ですが、飲み込みも早く陽気な方で、あだ名で呼ぶも本人のご希望です。
『初めて見るタイプでさあ、お客の意図が全然わからん。ログ出すね』
「どうも」
 ハナダさん、届いたファイルを開きました。ご自分の仕事画面から離れて、ターコイズさんとのお話に集中します。
 お名前と同じ青い目を上下させて読み込むハナダさん。画面はお見せできませんが、概要をサッと説明しますね。公式ウェブサイトできたみさんに問い合わせをした方が、最終的に有人オペレーターとの音声対応に切り替えられているのですが……
 そのテキストは絵文字と意図的な誤変換が組み合わさったものでした。ハナダさんのお鼻に皺が寄ります。そのまま、通話の文字起こしを確認していたハナダさん、途中で口元に手を当てたまま、画面を読む瞳の動きが止まってしまいました。お顔の皺だけが深くなっています。
『ヘイ、メンター! 会社でしちゃいけない顔!』
「あ……すみません。これ、課長報告モノだと思います」
 ハナダさんは姿勢を正し、頑張って頼りがいのある笑顔を見せました。
「俺が引き受けますんで、任せて。あとで結果だけ知らせますね」
『サンキューね。いつも頼ってすまん』
「次は任せますよ」
 ターコイズさんから音声ログも転送してもらい、通話を終了したハナダさん。同じフロアのどこかにいる課長さんへ、個別メッセージを打ちます。課長さんからはすぐお返事があり、ハナダさんは携帯端末片手に、課長さんの席へ向かいました。
「どうも」
「お疲れ様。何か困った?」
 課長のイリヤさんは、白髪のショートヘアの毛先を赤く染めて、緑のワンピースが似合うおばあ様です。
「通話でもいいのに」
「直接お願いしたくて」
 イリヤ課長、首を傾げます。
「一昨年のツバキ月、僕が車保部【車保部:車両保険部の略】にいた頃の音声ログと、さっき転送した音声データを照合して欲しいんです」
 課長さん、何か思い当たったんでしょうか。やんわり笑って頷いてくれました。
「石水くん、この……月初の20分以上のやつ、全部そう?」
「ですね」
 お客様サービス窓口の課長職以上が、通話音声を解析ソフトにかける事が可能です。困ったお客様の対応や、過去事例の参照に活かすようにしています。
「画面見てなくても良いからね?」
「お言葉に甘えます」
 イリヤ課長のお顔も険しくなっています。課長が閲覧する画面のテキストログは、言いがかりに近いご意見を手を変え品を変え繰り出すお客様の言葉が何行も続いていました。
「……石水くん、大当たりだ」
 お言葉に甘えたハナダさんが社内SNSで可愛い猫人形の画像を眺めていると、課長さんから名前を呼ばれました。
「きみが昔頑張ってくれたお客様だった」
 ハナダさんが指定した過去事案と、今回のお客様がほぼ同一であることが確定したようです。ハナダさん、おなかのあたりを手でおさえました。
「確かに、これは6課【お客様サービス窓口6課:個別対応が必要な顧客を請負うセクション】マターだね。言いづらかっただろうけど、報告してくれてありがとう」
 ハナダさん、力のない笑顔で首を横に振りました。
「新人さんから頼られたら、そりゃあやりますよ。仕事ですもん」
 それから居住まいをただして、ハナダさんは課長さんへ向き直ります。
「個人的な提案なんですけど。こういうの、じかに『上席』に繋げないですか?」
 理不尽なクレームや、無理難題をおっしゃるような、困ったお客様の対応を行ってくれる、お客様サービス窓口6課の用意した受け皿が『上席』です。
「テキストチャットが不審であれば、いったん『上席』で受けて、必要ならそこから下ろして貰えたら、オペ部も楽だと思うんです」
「石水くんの件で『上席』ができたんだもんね。活用しないとよね」
 課長さん、ハナダさんを元気づけるようにパワフルな笑顔を見せました。
「速攻で稟議かけて、音声通話のアドレスを上席に誘導できないか、やってみます。でなきゃ、きみも悔しいもんね。任せて」
「よろしくお願いします」
 頭を下げ、ハナダさんは自席に戻ろうとします。その丸まった背中に、課長さんが声を掛けました。
「石水くん、つらかったら午後休取っていいから」
 振り返ったハナダさん、首を前に出すような会釈を返しました。
「大丈夫です。昼ミーティングは出ます」
 ハナダさん、自席に戻ってからラップトップを閉じ、ロッカーに向かいました。常備してある錠剤を、ウォーターサーバーのお水で飲み込みます。ゆっくり深呼吸をしたハナダさん、それからお昼休みが終わるまで、自席には戻りませんでした。

 

  ◆


 13時になりました。今日の主人公、石水ハナダさんも自席に戻って、全員がモニタ越しに顔を合わせてのミーティングが始まります。ハナダさんと同じフロアでお仕事をしていた課長さんはお隣の席に移動なさっていて、午前中は寝ぐせだったターコイズさんはオンタイムの出で立ちですね。
 このミーティングは、きたみさんのログで「改善」タグのついた応答について、具体的な内容を検討するものです。採用案を稟議にかけて可決されれば、数日で、きたみさんにフィードバックされます。およそ60~90分のミーティングで、20件近い案件が検討され、半分程度が稟議に回りました。
 ミーティングの終わりに、午前中にハナダさんから課長さんへ回ったパスについて、課長さんからお話がありました。ハナダさんが被害に遭われた部分は伏せて「過去に業務妨害を行っていた顧客」としてスピード受理され、今後の対応も窓口全体に周知されるんですって。良かったですね!
「じゃあ解散、お疲れ様!」
 課長の声かけでチャットツールを終了させたハナダさんの隣で、課長さんも腕を天井に伸ばします。
「石水くん。これで、ひとまず良いかな?」
「はい」
 おじぎするハナダさんの背中を、課長さんが強めに叩きました。
「お礼はいいから。今日は仕事しまって帰りなさい」
「いや」
 ハナダさん、ご自分のお仕事が気になるご様子ですね。午後は、来季のきたみさんの異動に合わせて、後継になるAI社員さんのキャラクターを作るため、古いデータを参照したり、広報から貰う同業他社のリサーチ結果を取りまとめる予定でした。
 RC保険会社のAI社員は、異動という形式でキャラクターの交代が起こります。部外秘のお仕事ですが平時よりずっと忙しく、きたみさんが朝眠そうなのも、社宅に戻ってから深夜まで、個人的に調べものをしていたせいです。
「まだやる事が」
 ハナダさんは食い下がりますが、課長さんはそれを遮って、ハナダさんの目を覗き込みました。
「見てたからね?」
 痛み止めを飲んでから仕事に戻れていなかったこと、ご存じだったみたいです。
「無理が祟ったら大変です」
 言い返す間も与えず、課長さんはハナダさんのラップトップを終了させました。その上、ハナダさんに勤怠アプリを入力させて、廊下に出るまで見送る徹底ぶり。有無を言わせぬ、というのはこういうことですね……確かに顔色も良くないですし、お休みしたほうがいいかもしれません。
 さて、そうしてお仕事場から放り出されてしまったハナダさん。首のあたりを指で掻いてから、大人しく帰り支度を整えました。
 階段をゆっくり降りて10階下の社宅へ向かっていると、「先輩!」階段を上ってきた女性に呼び止められました。
「帰りですか?」
 こちらの、長い髪を編み込み、品よくまとめた方。姜八重【きょうやえ/女性/24歳/会社員】さん。ハナダさんが体調を崩されて異動する前は、車両保険部【現、お客様サービス窓口1課】で先輩と後輩でした。今でも仲良しです。専用のコールフロアでお仕事の筈ですが、どうかなさったんでしょうか?
「今日はね。ちょっと早めに。姜さんどうしたの?」
「午後休です。これからジムですか?」
 八重さんは、ハナダさんの大きなリュックを見ます。
「行こうとしてたけど、良いかな……」
 14階の福利フロアには、社員のみ利用可能なスポーツジムがあります。社宅の利用者は利用料が半額になるんですって。
「じゃあ、良かった。実は先輩にお渡しする物があって!」
 なんとなく階段を下り始めているお二人。八重さんが通勤鞄から、長方形の封筒を取り出しました。「こちら」
「うん」
 ハナダさんが受け取った封筒には、白地に水色のインクで『Invitation』と書かれています。
「挙式の招待状です」
「お? おおー」
 ハナダさん、立ち止まって封筒を眺めます。
「おめでとうでいい?」
「ふふ、ありがとうございます。いいやつです」
 ハナダさん、青い目を大きく開いてから、にっこり笑います。
「それは、おめでとう。ご両親、色々許してくれたんだ」
「はい! その節はご心配をおかけしました」
「まったくだ」
 ハナダさんは、八重さんからの招待状を丁寧にリュックにしまいました。「実は」そのハナダさんに顔を近づけた八重さん、ヒソヒソ声になりました。「先輩だけお誘いするんです」
「え?」
「あんまりこっちの会社から人を呼ぶと、親も良い顔しないですし」
「ああ、なるほど」
 数歩階段を降りてから、ハナダさん、何か気が付いたご様子。
「本当に俺で大丈夫なの?」
 先を行く八重さんが振り返り、ほころぶような笑顔を見せました。
「笑いごとじゃなくて。俺、ご両親に顔バレてるぞ」
 八重さんのご実家は、ましろ地区に自社ビルを持つ食品輸入会社です。長子の八重さんがご両親の方針に反抗してこちらに就職したため、ご両親がやってきて、エントランスで喧嘩になったことがありました。その時偶然居合わせて、後輩である八重さんの肩を持ったのがハナダさん。
「あの時先輩が応援してくれたから、親と交渉できるようになったんです。仕事もめちゃくちゃ助けてもらったし」
「お相手は承知してるの?」
 まだ心配そうなハナダさんに、八重さんは頷きます。
「マジメな話していいですか」
 エントランス階の踊り場で八重さんは立ち止まり、階段の手すりに寄りかかりました。手すりの飾りになっている、赤い蝋燭を象った社章を掴んで、八重さんは何かを謝るような顔をなさいます。
「どうしたの」
 隣で一緒に手すりに寄りかかったハナダさん、ご自分も本調子ではないはずなんですが、八重さんを気づかわしげに覗きます。
「車保の時、みんなの面倒な受電引き受けてくれて……調子崩されたの、そのせいじゃないですか」
「いや、それとこれとは別よ」
「嘘つき。お昼、うちの課長がそっちの課長と話してるの聞いたんですよ」
 八重さんに睨まれて、ハナダさんは顔を真下に向けます。何か言おう、としていらっしゃるのですが、顔を上げては八重さんの方を向けず、結局息を吐いて、うつむいてしまわれました。
「いや、責めたいんじゃなくて!」
 八重さんが咳払いしました。
「先輩が頑張ってくれたおかげで、私は元気に好きな人と結婚できたよって言うところ、見守って欲しいんです。こんなにスクスク育ちましたよ~! ありがとうございます! って」
 ハナダさん、首だけ八重さんのいる左側に向けます。
「……良い子に育ったねえ」
 少し掠れた声で、ハナダさんは言いました。
「こっちこそ、ありがと。ちゃんと先輩やれてたみたいで良かった」
 ぐす、という音がハナダさんから聞こえました。
「実は部外秘の仕事でめちゃくちゃ忙しくて、1か月ぐらいコレで」
 ハナダさん、右手の人差し指を上下させます。このビル内だけで生活している、という意味です。
「うわ」
「で、午前の件でちょっと情緒もアレで、メシも食えてない」
 ハナダさん、手すりから勢いよく体を剥がしました。
「メシ付き合ってくれる?」
「オッケーです!」
 八重さん、体を反転させて元気よくお返事してくださいました。
「じゃあ外行こう、外! 着替えるわ。先降りて待ってて」
「え? 別に気にしないですよ?」
「届いたきり着てないジャケットがあるから」
 そうして、エントランス階の階段でお二人は別れます。八重さんはハナダさんに手を振って、直通エレベーターで1階へ、ハナダさんはそれを見送って、各階停車エレベーターで社宅の階まで。
 幾分軽やかなハナダさんを乗せ、エレベーターがベルのような開閉音を鳴らして閉まりました。

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【スタッフ】ナレーション ドロシー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック
 

 P-PingOZ「Good mentor」 終わり

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pp14

主人公:石水ハナダ(男性/25歳/会社員)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、雨の夜、小型三輪を走らせる何者か。あなたがある年齢以上であれば、きっと名前は知っているはずの、その何者かを追うことにする。

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 P-PingOZ 「笛吹き注意報」ナレーション/友安ジロー

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【本日の放送は天候や時間の影響で多少見づらい映像が続きます。回線不良等による画質の低下ではないため、ご安心ください。】

 ツユクサ月、夜21時を回った頃。強い雨が降りしきる、ましろ地区の道路から、今日は始まる。
 集合住宅街に挟まれたこの辺りは、夜ともなれば人通りのない道を照らすLED街灯が眩しいばかりだが、雨のせいで一層、歩道の人影はまばらだった。
 その人気のない道路を、くすんだ緑色の、輸送用電動小型三輪が走っている。あれの乗り手が、今日の主人公だ。
 小型三輪の荷台には、人間が二人ぐらい収まりそうなプラスチックの輸送ボックスが積まれている。何を詰め込んだのか、箱の蓋は不自然に膨れ、固定バンドでどうにか閉まっている有様だ。小型三輪は法定速度よりややゆっくり程度の速度で、南東に向かっている。
 この天候だ。屋外の映像では、はっきりと主人公の姿は分からない。車内の映像に切り替えても車のフロント部分のみが映っているため、乗り手については全くの不明。見えるのは、雨の路上と、ヘッドライトが照らす少し先の水溜まりばかりだ。
 フロントガラスは、雨による視界不良を嫌ったか、ARディスプレイ機能を切っている。その上をワイパーが滑る。等間隔で街頭が白く照らす車内は、甘い女性ボーカルのエレクトロが流れていた。
 そこに、不意に挟まる合成音声。
『《真ん中さん》さんからメッセージです』
「ん?」
 どうやら今日の主人公、若い女性であるらしい。携帯端末と連動させたナビが、受信した鳩【電子メッセージ全般を指す】を読み上げる。
『本文、《墓地出た? ごまかしてます もって1時間 早めに戻ってください 返事不要》本文は以上です』
 その不意の連絡が終わると、車内は薄い車体に雨粒が当たる音と、時折ナビゲーション音声が道や歩行者への注意を促す声、切れ切れに音楽に合わせハミングする声の重奏。
 折角なので、僕も少し黙ろう。

 ……ツユクサ月の雨の夜は、オオカミの夜と呼ばれる。

 詩的な比喩ではなく、ただの統計だ。雨の夜は窃盗や誘拐が増えるため、ライオン【ライオン:第02特区市警を指すスラング】達がオオカミの夜と呼んでいる。彼らは警察組織としては無能に近いが、詩情のある業界用語を生み出す才能は持っていた。
『輸送ボックスが開いています』
「ん?」
 ナビゲーションのアラート音声に、小型三輪は減速する。
『貨物落下の恐れがあります』
 そのアラートが終わる前に、小型三輪はゆっくりと、邪魔にならない路肩へ停車した。
「んー……っと?」
 流していた音楽が止まり、何かを着込む音、ドアの開閉音。それから、ハザードの点滅する音が車内に残った。
 さて、社外へ切り替わったカメラは、小型三輪の後方から、主人公をとらえる。
 10分も立っていればずぶ濡れになってしまうだろう中、街灯が主人公のふくよかな体躯を浮かび上がらせた。
 雨具を着込んだ主人公は、車道に背を向ける形で、荷台の輸送ボックスと格闘していた。どうやら、蓋を止めていたバンドが緩んだせいで、ボックスが開いたとナビが誤認したようだった。
 主人公がボックスの蓋を膝で抑え、固定バンドを締め直しているところに、クラシックなデザインの黒いワゴン車が通りすがった。小型三輪の少し先に停車する。中から、男性が傘を開いて出てくるが、主人公は気づいていない。
「こんばんは。お困りですか?」
 肩を震わせて振り向く主人公。荷台に立ち上がり、帽子のつばを少し持ち上げ、声の主を確かめる。
「市警の委託捜査官なんですけどね。不審者情報があって巡回しているんです」
 車道側に立つのは、恐らく中年の男性。逆光と傘で上半身が見えないが、右手に持った何かを主人公へ向けた。恐らく端末の身分証を提示しているのだろう。
「お手伝いしましょうか」
 気持ちの良いバリトンの声が、主人公に手を差し伸べる。主人公は首を横に振り、体の向きを変えて作業に戻った。
「そうですか?」
 男性は身を乗り出し、車内を見ているようだ。
「はあ、なるほどなるほど」
 傾いた姿勢を戻した男性、傘を回転させ、主人公の積み荷に目を止めた。
「あの。それは?」
 よくよく見ると、無理やり固定した蓋の隙間から、人体の腕パーツらしき物がはみ出している。
「あっ」
 一言声を発したきり、主人公、言葉にならない呻きのような音を喉から搾りだしている。
「あの……中を見せていただいても?」
「あー……」
「何か事情がおありですか?」
 その時、黒いワゴンから大きな音がした。二度。三度。思い切り車体を蹴る、ないし殴るような音だ。
 二人の顔が車へ向けられる。先に動いたのは男性の方だった。
「すみません。私の相棒がせっかちで。お引止めして申し訳ありませんでした」
 足早に黒いワゴンへと戻り、車内に声をかける。「大人しくしてくれないと困るよ。分かるね?」
 それから主人公に小さく頭を下げ、男性は車輛に乗り込みドアを閉めた。
「……」
 主人公は、黒いワゴンが去るまで帽子のつばに手をかけたまま、動かなかった。

◆

 ……30分後。
 時刻は21時を半分過ぎた。主人公は、ましろ地区からひいろ地区に入ったところ。道路に面したウチデノマート【第02特区に展開する、ほぼ年中無休、長時間営業の小売店】の軒下に座っていた。小型三輪は目の前の駐車場に止めてある。丁度、黒い大型のガソリンバイクが隣に停まった。
 主人公は、左手に持った紙カップに執拗に息を吹き込んで冷まし、音を立てて啜っている。右手には携帯端末。誰かとメッセージをやり取りしているらしい。
「ねえ」
「ん?」
 バイクから降りた女性に声をかけられた。黒とオレンジのレインウェア姿、白い髪をツーブロックに刈り上げている。
「きみ、この三輪乗ってる人?」
 顔をあげた主人公の鼻先に、女性が出したのは携帯端末だ。
「自分は、委託捜査官のブリタニー・ミラーです。きみ、この三輪乗ってる人?」
 こんなに短時間に二度も猟師【猟師:委託捜査官】に止められるのは珍しい。主人公は無言で頷き、慌てた様子で立ち上がった。
「いきなりごめんね。ちょっとボックスの中見せてもらってもいい?」
 携帯端末を操作しようとした主人公を、そのまま、と、猟師が制する。
「どこに連絡するつもり? 両手下ろして、そこにいてね」
 主人公を軒下へ下がらせ、モノトーンの猟師が荷台へ飛び乗った。左脚のクローム義足が雨を反射した。
「うっわ!」
 箱を開ける前に、猟犬から太い悲鳴が上がった。
「腕じゃん! なにこれ人? 人形? え?!」
 猟師は主人公を振り返る。主人公は片手に紙カップ、片手に携帯端末を持ったまま首を振る。
「どういう事? 身分証出せる?」
「あ……うぅ……」
 主人公、背中を丸めてしまった。
「なんか言えない事情があるの? 見たとこ未成年だよね。こんな時間に何してた?」
 主人公から視線を外さないよう、右手を腰に回して荷台から飛び降りる猟師に向かって、主人公はキッと顔を上げる。そして、帽子を外し、口を開いた。
 猟師は主人公をぴったり5秒の凝視したのち、自分の頬を両手で引っ叩いた。
「ごめん」
 主人公はゆっくり首を横に振った。それから、猟師に端末のメモ画面を向けながら、指を滑らせ文字を打ち込む。文字を目で追ってから、猟師はグローブを外し、主人公の頭を乱暴に撫でる。
「わかった。じゃあ、それで、もう一度話してもらっていい? ほんと、悪かったね」
 主人公は紙カップを置き、小型三輪の運転席へ駆ける。猟師の方は改めて荷台へ飛びあがり、輸送ボックスの蓋を開いた。
「わかった。じゃあ、それで、もう一度話してもらっていい? ほんと、悪かったね」
 主人公は紙カップを置き、小型三輪の運転席へ駆ける。猟師の方は改めて荷台へ飛びあがり、輸送ボックスの蓋を開いた。
「ミラーっす。彼岸花通り3のウチデノ駐車場。アニさん、いつ頃追いつける? 今?」
 無線の相棒らしき相手に、猟師はため息をついた。
「自己嫌悪してるとこ」
 箱から出てきた、精巧なシリコン皮膚の腕パーツを片手で持ち上げた。
「不明者が入りそうなハコ積んだE3乗りいてさ。職質かけたんだ。中身人形だったけど、見たとこ喫水【喫水:成人と未成年の区別がつかない年頃を指す】だから、補導するかも。アイ、アイ。待ってます」
 運転席から主人公が戻ってきた。首に、若緑色の首輪のようなものをつけている。
『お待たせしました!』
 中央のスピーカーから、溌剌とした少女の声が零れた。
『あたし、竹村闘雀です。荷台のは人形パーツで、家で使うので、廃品を人形墓地【みそら地区にある人形廃棄所。単に墓地と呼ばれる場合もある】から買い取りました。IDは今見せます』
 ずっと話したかったのだろう。一気に伝えると、携帯端末から住民情報を呼び出し、猟師に見せる。表示される顔画像とQRコードを読み取り、市警のデータベースに照会をかける。猟師は端末と主人公を、何度も交互に見た。
「あぁ……きみ、あのレジデンスの」

 10年前。みそら地区、つづらレジデンスというマンションで火災が発生した。20階建て、80戸に住む100人近い住民が犠牲となった。多少稼げる単身者や、共働きの1世帯家族が多く、その幸せな生活が失われた不幸な事故に思われたが、実情は違う。
 鎮火してからの検分で、犠牲になった住民の半数以上が、火災より前に死亡していた事が判明した。炎が炙り出したのは、80戸の住民全員が、独自の信仰……とは名ばかりの、人道と理性を鮫に食わせた信条に基づいて生活し、それが破綻して火災に至った、という事実だ。
 その生きた証拠が、発話機能を奪われ、倫理的に誤った愛情を注がれた当時7歳の少女【火災現場から保護される少女の映像が流れる】。
 彼女こそが、今日の主人公、竹村闘雀【たけむらとうじゃく/女性/17歳/学生】だ。

◆

 主人公……闘雀は、首の補助具に触れた。
『今は、春子・ウィリアムズって名乗っているので、それで呼んでもらえると……その』
 猟師は目じりを下げる。
「オッケー、オッケーよ春子ちゃん」
 闘雀の肩を抱いて軒下へ戻る。
「たださ、春子ちゃん。勘違いで声かけちゃったけど、きみ、未成年だねえ」
 闘雀は呻いた。21時以降に出歩く未成年は、保護者同伴のない場合、問答無用で補導される。
「うん? どうした?」
『施設の人にアリバイ作ってもらってて……早く帰っておいでって言われてたんですけど……』
「そりゃ、やっちゃったなあ。施設どこ?」
『ええと……』
 猟師に聞かれるまま、闘雀は保護施設の連絡先、そして、今夜の足取りを伝える。この聞き上手な猟師より先に出くわした男性についても話すと、そこだけ子細に尋ねられた。
『あの……?』
「だって、怠慢だもんソイツ。名乗らないわ、途中で消えるわ。後で偉い人から搾って貰わないと」
『ああ……』
 やがて、ようやく一通りの話を終え、闘雀は息をついた。
『久しぶりに、たくさん喋りました』
「サンキューね。施設にはこっちで連絡しとくから、なんか飲むもの買っておいで」
 ウチデノマートで使える商品の電子チケットが闘雀の端末に送信された。
「とにかく、春子ちゃんに何もなくて良かった」
『ありがとう、ございます?』首を傾げながらも、闘雀は猟師に背中を押されて店内へ。
 笑顔で手を振りながら、猟師は施設より先に無線のマイクに手を伸ばした。
「あー、委捜【委託捜査官の略】のミラー。赤11重点回遊中、笛吹きと接触した未成年保護。当該未成年E三に乗車、車載カメラあり、車両番号分かりそうです、オーバー」

​

 ……闘雀がボトル入りの水を引き替えて出てきたときには、猟師は闘雀の暮らす保護施設の職員と話していた。
「……ああいや、今日は、そのBどもの件じゃなくて。春子・ウィリアムズさん保護してるんです。それが、今夜発生した事件容疑者と接触した可能性があって……」
 猟師は、闘雀を見てあからさまに「失敗した」という顔を見せた。
「いや、なんでもないです。それで、職員の方誰かに迎えに来ていただけたらと……はい。場所は……」
 店の出口で動けなくなった闘雀を、猟師が片手で抱き寄せると肩を撫でる。回転灯をつけた警察車両が来ても分からない様子で、近所の保護者がEV車で駆け付けるまで、闘雀の首からはなんの音も出てこなかった。

 その後、駆け付けた強面の施設長に背中が反るほど抱きしめられた闘雀は、猟師の相棒という市警の正式な捜査官と施設長が何か話すさまを無表情で眺めている。
「なんか、色々ごめんね。知らん方が怖くなかったよね」
『いえ!そんな』
 首の補助具から滑り出る声は、表情に反してどこまでも朗らかだ。
「いいよ無理すんな。笛吹き野郎は絶対捕まえるから。今夜じゅうだ」
 ライオンは、組織としては無能に近いが、敬意を払うべき個人は、存在する。
「春子ちゃんが怖い思いしなくて良いようにする。約束する」

 猟師は闘雀の顔を両手で挟んで視線を合わせた。「ね。任せろ」
 闘雀は、崩れた笑顔を浮かべて息を漏らした。
『……はい』
「いい返事! 今夜はあの海賊みたいなオジサンにしこたま叱られるだろうけど、春子ちゃん心配してるだけだから、聞いときな」
 そう言うと、猟師は右耳の受信機を指でおさえた。
「ハル!」
 施設長の男性が駆け寄ってくる。
『大お父さん』
「無事でよかったよ。そちらも、どうも。拾ってもらって有難うございます」
「なんの。なんか困ったら、刑事課にいる阿仁《アニ》警部補を呼んでください」
 頷く施設長の大きな手が、闘雀を抱え上げる。
『大お父さん!』
「今夜ばっかりは文句言わせんぞ」
 赤ん坊のように抱きかかえられ、闘雀は施設の名前が入ったEV車に詰め込まれて帰路に就く。
 途中、あの猟師が乗っていた大型バイクが追い越していった。
『大お父さん』
「なんだ」
『あたし、すごく大事にしてもらってるけど』
「そりゃうちの子は全員大事だからな」
『……ううん、そういうんじゃなくて……』
 闘雀が拘っているのは、恐らく己の出自の特異さだ。今夜の出来事は、それを想起させるに十分だった。
「別にお前だけ特別じゃないぞ。他の同じ年頃のやつと同じように大事な俺たちの子どもで、チビどもの博士だ」
 羨ましいほど全うな大人だ。
「あの泣き虫、お前の代わりに目が溶ける程泣いてやがる。着いたら元気なとこ見せてやってくれな」
『真ん中お父さん?』
「そ。ああ。その件についてはお前ら揃ってからキッチリやるから」
 闘雀は再び呻く。
 EV車は角を曲がる。その先は、闘雀の家と、今の生活と立場が待っている。今日の僕らはそこまで踏み込まない。この数日後には18歳を迎え、闘雀は通名を本名として登録しなおすからだ。
 僕らは春子に変わりゆく彼女の生活が、阻害されず、抑え込まれず、愛情を美しく与え、与えられ、守られることを願いながら、EV車を見送った。


【スタッフ】ナレーション 友安ジロー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

​
 ちなみに、この後あの猟師は本当に、笛吹きを海辺まで追い詰めて捕まえた。


 P-PingOZ「笛吹き注意報」 終わり

​

pp13

主人公:???(女性)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

 さて、今日は、紙の本を作る出版社の職場見学に行ってみよう。何が見えるかな?

 P-PingOZ「no book, no life」/ナレーション:山中カシオ

​ うつぶし地区。放置されてボロボロのフェイク街路樹が、意地で広葉樹のフリをしてるドリーム通り1番街。大き目の集合住宅地上2階、南側の2フロア。これが今日の主人公なんだけど……
「稿料? 前渡ししたでしょうが。飲みすぎて脳縮んだんじゃないの?」『絶対安全風俗ガイド最新版、初稿提出まで残り12時間です』「斉藤です。少し早いんですが直し受け取りに伺います」「やっと捕まえましたよ! グルーミングする前に原稿あっ切っ! サナガラ先生森から出てきてくれません!」

​ うるせえとこ来ちゃったね。

​ ここは、シェラザード出版。子ども向けの童話と、「大人向け」のガイドブックと、いろんな実録本が稼ぎ頭で、時々思い出したように出すお堅いルポの評判が凄くいいところ。
 ルポは俺も幾つか読み上げで聞いたけど、上っ面舐めた葦の歌【葦の歌:ゴシップ】よりしっかりしてる。おすすめ。
 シェラザード出版は、集合住宅の1BRを2部屋屋ぶち抜いてオフィスにしてる。大きな会議テーブルにはレトルト食の空トレイ、いつも誰かが寝ている簡易ベッドと、誰かが寝ていた毛布のかかったソファ。忙しいとこって大体こんなよね。
 壁づたいや仕切りの代わりに一面黒いラック。これまで出した紙本【かみぼん/紙でできている本】の返本や資料がギュウギュウ。地震で倒れたら何人か神殿行きだろうなあ。

 まあ、ここはそれでもいいっていう連中の集まりなんだけど。

 さて、ここにずらっと並ぶ紙本。みんなの中には、小さい頃に見たのが最後っていう人もいるよね。けど、意外と色んなとこで頑張ってんの。例えば、そうね。電子機器の持込規制がある場所。例えば……病室とか、機微情報を扱う企業の休憩ラウンジ、Bleu Blueの聖堂、行政ビルの中。
 あと、シェラザードでは扱ってないけど、指でデコボコを触って読むタイプの本もあるよね。紙本の役割は他にもあるんだけど、それは一緒に見ていこっか。
 お? 早速一人事務所を出てくぞ。明るい茶髪をローポニーにくくって、安いカジュアルウェアに年季の入ったリュックの人。斉藤ナオコ【さいとうなおこ/30歳/女性/編集】。

 どこ行くのかな? ついてってみよう。

  電動スクーター乗ったナオコ、うつぶし地区の通称『高架下住宅街』に向かっていく。うつぶし地区の南のはしっこあたりで、モノレールの階層路線真下に建てられた二階建ての宅地のこと。家賃がえらい安くて、引き換えにプライバシーとか騒音とか治安とかを差し出してる。
 カキワリ【未登録市民を指すスラング】とオオカミ【オオカミ:犯罪者・ならず者を指すスラング】のねぐらがご近所さんなんだよね。目当ての家の前でスクーターを止めたナオコが、顔認証ロックをかけたスクーターに更に物理錠ふたつかけてるのは正しい。
 隣んちとほとんどくっついたような二階建ての、同じ面構えした建物がずらっと並んでいる。目印は扉にぶら下がるリスのマスコット人形だ。呼吸と髪を整えてから、ナオコはチャイムを鳴らす。
「斉藤ですー」
『開ける! あっ動くな!』
 ドア一枚向こうから聞こえる騒がしい生活の気配に目を細める。スマートロック開錠音の一拍あと、ナオコはドアを開けた。
「止まりなさい! 汚れる!」
「やーだー!」
 そのナオコの目の前で床を転がってんのは、下着姿で両手のない女の子。お風呂上りっぽいね。義手を持ったベリーショートの女の人が、ナオコと応対したほうだ。お取込み中失礼しまーす。
「悪い斉藤ちゃん!」追いかけてる方がナオコに謝る。こっちが、家主の那須田きみこ【なすだきみこ/年齢非公開/女性】。シェラザード出版と懇意のライターだ。歓楽街のオトナ向けサービス業のレポートだとか、カジノの勝ち方とかがメイン収入だけど、今日の仕事は絵本の名義だ。
「いいえー。こちらこそお邪魔します」
 ナオコは、女の子に向かって手を広げて笑った。
「こんにちは。抱っこしていい?」
 転がってた女の子が止まった。こっちが、ハリちゃん。未登録市民。アバラ浮くほど痩せてて、15歳くらいかな。濡れた髪をブルブル振って、ピュアな笑顔。
「いいよ!」
 ハリちゃんはゴロンと起き上がった。言う事やる事が見た目より10歳ぐらいおチビちゃんだ。そういう子もいるよね。
「ありがとう」
 ハリちゃんをハグしたナオコ、振り返って那須田に目くばせ。素早く那須田が義手を固定。両足と同じドロッセルマイヤー製の、買いやすくて頑丈な生活義肢。
「よし終わり!」
「やだ! まだ遊ぶ!」
 着けたばっかの腕を振って幼児のお作法で駄々こねるハリちゃんを「後で!」で那須田がひとまず黙らせた。
 那須田がハリちゃんの保護者になって、まだ三か月ぐらいらしい。だいぶ打ち解けてるけど、ハリちゃんがこうだから、実のところ、那須田は困ってる。
「アクセル名義の方、その後どうですか?」
「いやー、在宅だとダメだねえ」
 那須田はタンクトップの上からオーバーサイズのデニムシャツを羽織る。
「取材出られんし、花連れて帰れんし、しばらく休業するつもりで、他所にも連絡してる」
 オトナ向けの方、実際にサービス受けないとネタ出ないもんな。
「人に預けてってのもさ」
 預けるに反応したのか、ハリちゃんが那須田の腰にしがみついた。
「こうでしょ? とりあえず教室で繋ぐしかないわ。原稿持ってくるね。座ってて」
 教室っていうのは、この辺の住民向けの、初等教育の先生って意味だ。この「先生」ってのが、この辺じゃえらいリスペクトされる。この辺はまだ、登録市民が多い。結構な世帯が住んでるけど、子供世代まで教育のパワーが行きわたらない。那須田が始めた副業は、その辺に向けての預り所と塾みたいなもんだね。
「ハリちゃん、お土産あるよ。見る?」
 まだ那須田の腰にぶら下がったハリちゃんに、ナオコはリュックから自社の絵本を何冊か取り出して見せた。ハリちゃんが那須田の腰から剥がれた。
「見る!」
 チビちゃんの扱い慣れてるなあ。那須田はアイコンタクトでナオコに礼を伝えて二階の仕事場へ。見送ってソファに座ったナオコの隣に、ドサッとハリちゃんが座った。
「那須田さんのタブレット、壊して本が読めなくなったって聞いたから」
「……投げちゃったの」
 ナオコは、ハリちゃんの細い背中を撫でる。まあ……チビちゃん向けタブレットならいざ知らず、普通の仕立てじゃ10代の肉体パワーには勝てないわ。
「こっちなら、壊してもすぐ直せるから大丈夫だよ」
 大判の絵本を一冊ハリちゃんへ差し出す。確かに、直すのにかかる時間の短さは、紙本が強い。
「ほんと?」
 慣れない手つきで絵本を受け取ったハリちゃん。「か、も、め、の、う、い、る」表紙の文字を読み上げてから、困った顔でナオコを見た。
「ああ」
 ナオコは別の絵本を手に取り、表紙をめくってみせる。
「こう」
「えっと、こう?」
 見よう見まねで、ハリちゃんはそろそろと本を開く。この義手に慣れてない感じだね。
「そう!」
「お待たせ。ハリ、斉藤ちゃんにありがとうしたか?」
「するよ! ありがとね!」
 仕事部屋を出てきた那須田とハリちゃんのやり取りに、ナオコは笑った。
「上で読んでおいで」
「んー!」
 ハリちゃんと入れ替わりで、手にプラスチックのケースを持った那須田が、ナオコの隣に座る。
「ゴメンね、色々。いつも助かってる」
「いえ! 好きで……その、やっているので!」
 あーあ、ナオコ声裏返っちゃってるよ。
「それに、ほら! 義手の練習にもなりますから」
「ありがとうね。じゃあこれ、2校のお返しです」
 那須田は原稿の入ったプラスチックケースをナオコへ渡す。
「はい! 確かに。赤入れたところ見てもいいですか?」
 お、双方スイッチが入った顔になったな。
「お願いします」
 ケースから取り出した原稿を二種類、少し手元から離してじっくり見る。あ、発売前の本だから中身は隠してます。悪しからず。
「初稿で直して貰ったとこ……ここ。まだ青み強い感じがするから、直してもらいたい」
 片方が最初の、もう片方が今回の原稿。
 試し刷り用の紙の代金もバカにならないし、こうやって何度も修正を繰り返してできあがるから、OZに流通する紙の絵本は数が少ないし、古いやつの焼き直しと、売れたやつのシリーズが延々出てるって感じ。正直、シェラザードのやってることって採算取れてないのよね。
 でもさあ……
「あれ、下書き残ってますか?」
「げ、ほんとだ。見落としたあ。悪い」
「修正してもらいましょう。文章の校正は……あまり大きなものはないですね」
 この二人の顔見てると、採算とか、そういうの、粋じゃないって感じしちゃうな。
 まあ、商売それじゃやってけねえから、絶対安全風俗ガイドとか出してんだろうな。コードの関係でそっちのご紹介はできないんだけど。
「あ……ここのセリフ」
「悩んだんだけど、ハリが分かるのは、斉藤ちゃんが提案してくれた方だったんで」
「ありがとうございます!」
「ほか、気になるところは?」
 那須田が聞くと、ナオコは大好きなものを目の前にしたような顔で那須田を見た。
「よかったです! 今回も良い感じになりそうで! 早く書店に並んでほしい!」
「つまり」
「最終稿帰ってくるの楽しみですね! あ、もちろん事務所でまた確認しますけど!」
 スイッチ切れるとただのファンになっちゃうのすごい切り替えだな。
「ああそうだ、那須田さん、その後お変わりないですか? 聞き忘れてました」
 原稿をリュックに大事に片づけて、ナオコは立ち上がった。
「うん。大丈夫。そっちの社長さんにもよろしく伝えて」
「仕事の件も、なにか回してもらえないか相談してみますから」
「ありがとね」
 那須田はナオコを玄関口まで送っていく。
「いえ! 何かあれば連絡するので、那須田さんもご連絡くださいね」
 分かった分かった、と、那須田は苦笑いした。
「心配性だなあ」
 靴を履いたナオコは立ち上がって、きっぱり言った。
「だって、那須田さんの本が出なくなったら一番悲しいの私です!」

 この時の絵本は三か月後に無事発売されたし、そこそこ人気になって続刊も決まった。


◆


 さて、P-PingOZ、今日の主人公はここ、シェラザード出版。

 さっき、出かけてたスタッフの斉藤ナオコが、那須田先生から受け取った原稿を事務所に持ち帰ってきたんだけど……どうやら原稿チェックする前に別件が割り込んだみたい。社長含む常勤の社員が全員、ミーティング用のスペースに集まってるね。

 それにしても、こうして揃うと……何の集まりかよくわかんないなあ。えーと?
​
 一番良い椅子に座ってて、強めのメイクにモードっぽいスーツ着た女の人がシュエ・ワン【女性/47歳】。シェラザード出版を立ち上げた、一番偉い人。朝の支度に2時間かけそうなボリュームある巻き髪といい、見るからにやり手って感じ。 
 そこから時計回りに、小柄でハデな柄シャツが悪目立ちする魚住洋【うおずみひろし/男性/39歳】。ほぼすっぴんで近所に買い物に行きそうな格好の斉藤ナオコ。その隣に、どっかのバンドTで、アンカー髭のヒョロっとしたのが福永ウィルヘルム【ふくなが-/男性/52歳】。
「忙しいところすみません。急遽、相談したい事項が出たので集まってもらいました」
 ウィルと社長の間に座ってる、緑の髪を今っぽいオールバックにしてタートルネックのニット着たチャーリー【チャールズ・テニエル/男性/24歳】が切り出した。
「レオライブラリで、気球の閲覧ができなくなりました」
 チャーリーは、営業関係の仕事が8、原稿の催促が2の比率で仕事してる。板本書店の特集発注だとか広告なんかの売り込み、広告のスポンサー探し、事務所に来ちゃった面倒な客の応対まで。シェラザード出版の最前線で世間サマと衝突する役回りだ。
「これで、うちが板本で配信していた『気球』が全社停止です。ので、今回の件について、公式に声明を出します。僕のテキストたたき台に、ロカに3パターン作成してもらいました。ロカ、声明文を転送して」
『承知いたしました』
 AI社員のロカがテーブルの真ん中に置かれたスピーカーから合成音声を流す。
『転送します』
「確認お願いします。そのうえで、正式なリリースのテキストを決めたいところです。5分あれば全部読めると思いますので」
 お、チャーリー腕時計してるんだ。珍しい。

 さて、みんなが読み込んでる間に簡単に説明しよう。『気球』がどんな本かっていうと、お掃除人形がハッキングにあってオズが結構混乱しちゃった事件、その犯人について書かれたもの。筆者の細波あぶく【さざなみ-/筆名】ってのは、オズでは身元不明の遺体を指す名前。いわゆる覆面作家ってやつだ。

 この『気球』が、悪い意味で爆売れしちゃった。ここで取り上げた犯人っていうのが、久しぶりに出た大型の『憎まれ役』でね。一部熱狂的なファンを生んだわけ。そのバカたちが、犯人の収入にはならないってアナウンスしてんのに、買えばお布施できるってデマ信じて爆買いしてたの。
 で、かねてから態度が悪かったこのバカどもを良く思わないアホたちが、中身も見ねーで板本書店各社に通報しまくった。シェラザードはその喧嘩でとばっちり食っちゃった。

​「あの」
 読み終わったナオコが小さく挙手した。
「どうぞ」
「文書の要点は4つ。現在の状況には思うところがある。細波の過去作は下げないでほしい。新作も進行中で、これも広く行きわたってほしい。紙本もよろしく、で、合ってる?」
 ナオコの質問にチャーリーが頷く。
「です。その点が伝わればいいという感じ。内容について問題がなければ、あとはトークの姿勢についてなんですけど……要点については合意いただけます?」
 全員が挙手し、チャーリーは、よし、と座りなおした。
 次にだらしなく手を挙げたのは洋。
「俺は3案良いと思う。一番オーディエンスから同情貰えそう」
「同情だァ?」
 そこに、前のめりで噛みつくのはウィル。間に挟まったナオコが、露骨に助けを求める目を社長に注いでる。
「いやあ、同情は安全圏にいる大衆の娯楽ですよ」
「一時の同情は有効だろうが、一度弱者の立場に甘んじると、今度は大衆が俺たちをコントロールしがたるぞ。俺は1案ぐらい尖っていいと思うが。うちのアティチュードに共感する層に届く」
 ナオコがどんどん背中を丸めていく。誰か止めてやんなよ……
「むやみに怒り散らして敵を増やすの、いただけないでしょうよ」
「てめえ、ウチの方針分かってて言ってんのか?」
「習い性なんですわ。3000文字【ゴシップ、タブロイド紙関係者を揶揄するスラング】あがりは、部数伸ばす売り方をつい考えちゃうもんで」
 ごつん!
 机を殴る音。チャーリーだ。
「そういう不毛の極北みてえな討論は飲み屋でやってください。あんたたち良い大人、ここ職場」
 あんまりにも冷えた態度に、さすがの水と油もおとなしくなった。ナオコは……まだ社長に助けを求めてる顔。
「ウチが紙本出す理屈も理念も承知してますけど、板と紙の売上げの率分かってますよね? 次の細波の作品は、デカく売れないと困るんですよ。僕たちが向くべきは、喧嘩の客でも思想に共感するやつでもない。未来の読み手だ!」
 言葉に合わせて机を叩きながらまくしたてるチャーリー。
「下手な声明出して過去作まで差し止め食らったら、僕はここで首くくってやりますからね! ここで!」
 立ち上がっちゃったチャーリーが、据わった目のまま腰を下ろす。社長以外が全員幽霊見たような顔してるけど、チャーリー、『やる』って言ったら『やる』やつらしいんだよね……
 気まずさか何かでシンとした会議テーブルに向かって、シュエ社長がスラックスから伸びる長い脚と長いピンヒールのパンプスを乗せた。『振動を感知しました。地震情報はありません』ロカ……
 シュエ社長、ヒールの先っぽで、男たちを順番に指していく。
「あんたは話が長い。お前たちは喧嘩をしない。ナオ、意見を聞かせてちょうだい」
 ナオコは緊張が解けたのかつっぷして、そのままの姿勢で携帯端末を見る。怠けてんじゃなくて、テキスト確認中ね。
「私なら……3に寄せつつ2案ですね。2案が一番誠実そうです。あと、まだ買ってないけど楽しみにしてくれていた人、購入していたのに配信が止まって返金された人にはお詫びがあっていいと思います」
「そうか!」
 チャーリーが背もたれに大きく体を預けてのけぞった。
「抜けてた! ありがとうございます」
「なんのなんの。そのためのミーティングでしょ」
 ナオコは携帯端末をチャーリーに振る。
「そうだぞお。1時間程度でよく叩いた」
「後は……喧嘩のダシにされてる件、こういう状態になっていることは遺憾だ、ぐらいにするか。俺たちも腹は立ててるんだ」
 水と油の二人もきっちり切り替わる。
「困ってるっていう話もしとこうや。紙本で買えるって話は補足程度にして……どうせなら紙本の特集なんか、できるかい?」
「昔のフォーマットがありますから、テキストだけ差し替えれば対応できますね。すぐ出すとあざといので、数日後ぐらいにしましょう」
「ほらー、また脱線してる!」
 社長がこんな感じで時々方向を修正して、最終的にはロカが清書したテキストがすぐに公式ウェブサイトに反映した。さてお開きかな……っていうところで、シュエ社長が「待って」全員を引き留めた。
「ついでだから、細波の新作についての話もしたいんだど、いい?」


【ここから未放送分】

 シュエ社長、デスクに乗せた足を下ろした。
「今回は、いつもの外部スタッフだけじゃなくて、新しい人にも手伝ってもらいたいんだけど。前作の……ASKちゃんとは連絡が取れる?」
「なんだ……確か、気球の手紙受け取った女の子か?」
 ウィルの言葉を聞いて、ナオコがチャーリーを見る。チャーリー、しぶしぶ頷いた。
「あのクロウン【クロウン/ストリートファッションのテイスト】の子なら、僕、普通に友達になってますけど……あの子まだ未成年ですよ」
「前科もないし」
 洋がまぜっかえす。
「前科あれば良いみたいな言い方よしませんか」
「チャーリー、脱線。その子には、ロカと那須田ちゃんちのセキュリティが気になるから、そっちの強化を頼みたいの。お賃金は相場の1.5で払う。とにかく外からの不正アクセスが怖い」
『私は正常に稼働していますよ』
「そんなにやばいですか? いくらなんでも」
『私は正常に稼働しています』
「ロカ、おやすみ」
『はい。おやすみなさい』
 チャーリーが話の片手間にロカをスリープモードにする。
「未成年の児童を関わらせちゃまずいでしょ」
「大丈夫。安全は保障させます。いつものジーニー【ジーニー:便利屋の総称。合法、非合法を問わない】呼ぶから」
「それなら……まあ……」
 不承不承、チャーリーは頷いた。
「そうだ、その件で。俺もクロックダイル【クロックダイルワークス:犯罪組織】の『目』の方、初期ロットの生き残り見つけました」
 洋が手を挙げる。
「カニの情報、毎度正確ですけど何なんですか?」
 シュエ社長、得意げに片方の眉を持ち上げる。
「あの娘(こ)はいつだって最高よ」
「惚気てる場合か」
 ウィルは一番年寄りだから、社長を気兼ねなく茶化せるらしい。
「そいつとは接触できそうかね」
「身内の勤め先にメンテ入院してるんで、今行けば大丈夫だとは思うんですけど……死んだら骨は酒と一緒に撒いてください」
 洋の物騒な発言は全員に無視された。ジョークだったみたいね。
「じゃあ、僕もあの子に連絡取ってみます」
 チャーリーは私物の方の端末を取り出す。
「あの、私もそろそろ那須田先生の原稿……」
 立ち上がりかけたナオコを、シュエ社長が手招きする。
「ナオちゃん。ハリちゃんの様子を教えて」
「ああ」
 ナオコはあらためて社長に報告。
「元気でした。まだ5本指には慣れてないみたいです。近所に不審な人やドローンは、いなかったように思います」
「おお。良かった。百虎【百虎會(バイフーフイ):犯罪組織】まだ黙ってるか」
「今の時点では、那須田先生はただ児童を保護しただけですから。あと、那須田さんがアクセル名義の仕事できなくて困ってて」
「それなら」
 洋が胸を叩く。
「俺からコラム系の仕事回せないか古巣当たるよ」
「よかった! 先生に伝えます」
 今度こそ、と立ち上がりかけたナオコを、「ナオちゃん」またシュエ社長が呼び止めた。
「ナオちゃん。私情で那須田ちゃんに会いに行くの、当分禁止だから」
「……」
 ナオコ、一瞬すげえ形相になったぞ。落ち着け。
「早いとこ細波の原稿上げましょう。それで文句ないですね」
 ナオコの闘志に火が付いたって感じだ。
「頼もしい。よろしくね」シュエ社長、携帯端末で時間を見て立ち上がった。
「クロックダイルも百虎會も、まとめてブッ叩く。那須田先生の安全を考えると、できるだけ早く」
 ナオコはじめ、人間のスタッフたちが、指先で戦う戦士の面構えに変わる。
「私ができることは惜しまないから、イレギュラーや不足があったら、いつでも私に連絡をして」
​ いやあ、これ最初に聞いた時はびっくりしたよ。クロックダイルと百虎會、いわゆる東南抗争の当事者どもだからね。
 後からこっちで調べて分かった事の起こりは、那須田がアクセル名義で取材した店で拾っちゃったハリちゃん。この子が、両腕を刺突用義肢に置き換えてた百虎會の抱える陶兵【とうへい:使い捨ての戦闘要員】だったの。で、やべーことに首突っ込んだって、シェラザード出版に連絡を取った。
 どうしてか?
 那須田の使う筆名のひとつが、細波あぶくなんだ。そんで、細波あぶくは十数人からなるチームだ。そのコアが、ここ。シェラザード出版。

 ハリちゃんが何者なのかは、この後無事出版された『針と目 未登録児童と身体改造と東南抗争』に書いてあるから、読めるようなら買って読んでね。
​ これ、当時この辺をカットした理由、わかってほしい。わかってくれたかな?
​

【ここまで未放送分】


 シュエ社長、細波あぶくの新作について、いくつか指示を出した。出版する方向性は変わらずやってくらしい。内容についてはまだ発売前の作品だから、ここもちょっとカットしました。
「いつも通り連携取ってやっていきましょう。チャーリーが言ったとおり、私たちは未来の読者に向かって、記録と物語を残すことが使命です。最悪配信が差し止められても、紙本がある限り誰かの手に、私たちが人生を削って作った物は残る」
 シュエ社長は手を叩いた。
「さあ、仕事に戻って。私はデートしてくるから、後よろしくね」
 シュエ社長、ピンヒールをコツコツ鳴らして事務所出て行っちゃった。何となくわかってきたんだけど、ここの社員、振り幅がすげえな。
「ロカ、おはよう」
 チャーリーがロカを起こした。
『おはようございます』
「あの社長出禁にしてくれない?」
『すみません、お話の内容が分かりかねます』

​
【スタッフ】ナレーション 山中カシオ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

​
​P-PingOZ 「no book, no life」終わり

pp12

主人公:シェラザード出版

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、前回に引き続き、9年校の女の子と男の子。 初めて出会ってから1年が経っても、知らないことはまだ多かった二人のエピソード、本日は後編です。
 
  P-PingOZ「アリカさんと桐生くん・後編」/ナレーション:リエフ

 二度めの春が、第6ひいろ地区9年校の屋上庭園を若い緑で彩ります。

 学年があがってクラス替えもありましたが、アリカさんと桐生くんはまた隣のクラスでした。
 初めてここで二人が会ってから一年が経ちましたが、この場所以外で親しく話したり、校外で遊んだりしたことはありません。連絡先さえ交換していませんでした。特になにか取り決めたわけでなく、そういう風になっていました。
 変わったことと言えば、桐生くんでしょうか。背が伸びたこと、ウィッグをやめたこと、時折電子バイオリンを持ち込んで、練習するようになったこと。ウィッグと引き換えに、お家の人に、バイオリンを続ける許可を取ったのだとか。
 その桐生くん、今日もバイオリンのケースを持って6階のエレベーターを降りましたが、屋上の入口から飛び出してきた女の子が、桐生くんに気が付かなかったのか強くぶつかって尻餅をつきました。
「大丈夫?」
 手を伸ばしてから、桐生くんは気まずい表情になりました。転んだ女の子は、チア部の佐治沢さん。春休み前、桐生くんは佐治沢さんからの告白をお断りしたんです。
「あ……」
「そういうのいいから」
 佐治沢さんはそう言って桐生くんの手を払い、立ち上がりました。
「私、信じてないから」
「え? ちょっ、何の」
 桐生くんを無視して、階段の方へ走って行ってしまいました。桐生くん、小さくなる佐治沢さんの背中と屋上への入り口を交互に顔を向け、「もしかして」
 生徒カードを読み取り機に叩きつけ、屋上入り口を開錠しました。
 桐生くん、慌てた様子で庭園へ。鞄をガゼボに投げ入れ、バイオリンのケースだけ抱えてランニング中のアリカさんに駆け寄ります。
 それから、アリカさんをいつものガゼボまで連れ戻した桐生くん。テーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろしました。
「なに? 相談って」
「あの、さっき、佐治沢さんに会って。入口のところで。それで」
 桐生くん、言い淀んで、テーブルに両手をついて頭を抱えてしまいました。抱えた頭の隙間からアリカさんをちらりと見て、申し訳なそうに小さな声で言いました。
「それで、佐治沢さん、俺たちが付き合ってると思ってるっぽくて」
「あー! そういうこと! 分かった!」
 アリカさんはそれを聞いて、逆に大きな声をあげると、ガゼボの屋根を見上げました。
「何が?」
「ミリ、あたしのところに来て同じこと聞いてきたよ。付き合ってるんだろって。否定はしたけど、信じてなさそうだったから」
 桐生くん、佐治沢さんに告白をされたこと、それをお断りしたこと、さっきの出来事をアリカさんに話しました。
「俺も、断った時に言ったんだけど……」
 恋の話は、受験や就職の話が本格化するまでは恰好のゴシップです。
「俺は別にだけど、噂になったらアリカさん」
「困らないよ。大丈夫」
 慣れてるよ、とアリカさんはさっぱりした態度。
「多分、ミリ、あたしが嘘ついてるって、疑ってるんだと思う。あの子とは色々あったから」
「色々?」
 桐生くんが首をかしげると、アリカさんは前髪を引っ張りながら、しばらく何か考えて、顔を上げます。
「桐生、これでミリに何か言うのは絶対やめてね」
 そう前置きして、アリカさんは一呼吸。
「あたしがチア辞めた原因があの子達なんだ。もしかしたら、噂とか聞いてるかもだけど」
 確かに桐生くん、アリカさんの事は、初めて声をかけた去年の春、クラスメイトから聞いています。チアを退部して運動系の習い事を始めたらしい、とか、まじめで口うるさかったのが、7年に上がってクールな感じになったとか、部活を辞めたのはいじめられていたから、とか。
 けれど、最初の無遠慮な質問以来、桐生くんはそれらの噂について、アリカさんに直接尋ねたことはありません。今も、目線だけはアリカさんに向けて、次の言葉を待っています。
「5年の終わりくらいに、ちょっと、いじめみたいな事があって。部で」
 アリカさんは前髪に手をやります。
「やってた子達に注意したら、こっちに矛先が来ちゃった」
 アリカさんは苦笑い。
「誰でも良かったんだろうね」
「……ん? え、待って」
 苦い顔で聞いていた桐生くん、何かに気が付きました。
「待って。7年まで律儀にやられっぱなし? 馬鹿じゃないの!」
 アリカさんはベンチから立ち上がりました。
「だって、チアは楽しかったんだよ。6年やって、1年しがみつくぐらい」
 そのまま、アリカさんは桐生くんに背中を向けました。
「……おにいにだけ全部話して、親には、チア飽きたからって言って、辞めた」
「うん」
「それが、なんかね」
 肩と首を回したアリカさん、大きく息を吐きます。
「……へへへ」
 肩の荷を下ろしたように、アリカさんは脱力します。
 桐生くん、眉を寄せて、時間をかけて、言葉を捕まえました。
「アリカさんが、逃げたとか負けたとか、思わなくていいよ」
 ……桐生くん、とても……怒ってませんか?
「佐治沢さんに言われたんだ」
 不機嫌に口を尖らせた桐生くん、テーブルに突っ伏し、抑揚のない声で伝えます。
「アリカさんとのことは誤解で、自分が悪く言われてるならアリカさんが嘘をついている、的な? そういうことを」
 言いながら、桐生くんの語気が荒くなっていきます。
「アリカさん、佐治沢さんの事、一言も出してないのに!」
「桐生」
「絶対自分がやってるから疑ったんだよ! 何なのあの!」
「桐生」
 アリカさんは桐生くんの左側にあるベンチへ外向きに腰かけます。
「ありがと」
「俺が勝手に怒ってるの」
 テーブルにうつ伏せになったまま、桐生くんはスネたような声で言いました。
「俺、アリカさんから、ちゃんと聞きたかったのに。去年、勝ったら教えるって、言ってくれたじゃない」
「あれ覚えてたんだ」
 驚くアリカさんとは逆側に顔を向ける桐生くん。
「覚えてるよ」
「そっか」
 アリカさんはテーブルに肘をつきます。
 防犯ドローンが、季節の鳥の声で鳴きながらガゼボの上を通り過ぎていきました。その音を目で追いかけながらアリカさん。
「ミリが怖くなかったんだよ」
 桐生くんの顔が、アリカさんの方を向きました。
「さっき。大きい声も出されたし、ちょっと掴まれたりしたんだけど」
「は? ボクシングやってる人に手出したの?」
 桐生くん、手のひらでテーブルを叩きます。
「ウケる」
 人の悪い笑顔です。
「でも、やり返さなかったんでしょ?」
「当たり前じゃん。ボクシングやってるんだから、普通にダメだよ」
 アリカさんはベンチに座りなおします。
「さすがだよ。俺なら、後のことなんか知らねーって殴ってるよ」
 桐生くんにつられて、アリカさんも笑いました。
「でも、桐生のおかげだよ」
「俺え?」
 桐生くんの声が裏返りました。
「桐生、ずっとあたしの事、真面目なやつだって言ってくれたから」
「いや」
 桐生くん、続きを言い淀みます。最初の頃は、からかっている風でしたものね。
「だって、凄く暑くても雪降ってても、ずーっと練習は止めなかったじゃない。真面目な人だよ」
 言い訳するようにフォローする桐生くん。
「でも、桐生がそうやって言ってくれたから、あたし、自分がこのままで良いんだなって、思えたっていうか……えっと、伝わるかな?」
 アリカさん、テーブルに頬杖をついて頭を左右に揺らします。
「練習続いたのも、最初は桐生のこと嫌いだったから、絶対に弱み見せたくないなって」
 二人は顔を見合わせて、思い出し笑いを浮かべます。
「あの雨降ってた日の事、俺まだ覚えてるもん。あの時、良い意味で真面目な人って思った」
 アリカさんと桐生くんは、お互い、何か大切なことを話す代わりに、あとから思い出せないような些細なことを沢山話して……この日、アリカさんは初めて練習を中断して、桐生くんが帰るまでお喋りに付き合いました。

◆

 アサガオ月の中頃には、アリカさんと桐生くんが付き合っているという噂は、二人の予想通りお互いのクラスとチア部、それを通じて運動部の生徒の間で広まりました。それに伴って幾つかのグループや何人かの個人が、からかい目的や噂を確かめるべく、第三ルーフに訪れたのですが……。
 彼ら、彼女らが目撃したのは、アリカさんが淡々とトレーニングして、桐生くんが習い事をさぼる時間潰しをしたり、バイオリンの練習をする合間に少し雑談をしては適宜解散しているところ。結局、落胆や謝罪とともに引き上げていきました。
 そうして二人への詮索が収まりつつある、去年より平均気温の高い、夏季休暇前の屋上庭園です。
「アリカさんさあ」
 暑がりながら、スカートで足をあおいでいる桐生くん。
「桐生、行儀悪いよ。なに?」
 こちらは、練習中に瞼を切ってしまったと、左目の上に絆創膏を貼ったアリカさんは。テーブルに手をついて腕立て伏せをしています。
「夏休みだけど、クロコレ行く?」
「無理」
 アリカさんは腕立ての合間に答えます。
「今年は……合宿と、かぶってるから」
「ボクシングの?」
「そ! 交流戦も、あって!」
「そっか。勝って帰っといで」
「桐生は? バイオリンの方」
 鞄から出した冷却シートを額に貼る桐生くん、
「夏の間は休み。だから、姉さんの名義で、アプリの動作チェックのバイトするつもり」
「こら!」
「去年の夏服が小さくなっちゃったんだもん」
 16歳未満の就労は違法なのですが、在宅ワーク代行という脱法ビジネスでお小遣いを稼ぐ児童も多くいます。
「家の人にバレたらどうするの!」
 桐生くんは肩をすくめました。
「大丈夫だよ。去年もなんとかなったし」
 アリカさん、物言いたげな表情で、3セット目の腕立てを終えました。
 桐生くんが楽観的すぎたと分かったのは、秋も深まり始めた頃でした。

◆ 

 冬休みまであと二ヵ月、といった頃。
 急に、桐生くんと会えない放課後が続きました。学校自体に来ていないらしく、アリカさんも桐生くんのクラスメイトから尋ねられましたが、理由が分かりません。
 アリカさんは放課後の第三ルーフでルーチンをこなして、なんとなく物足りなそうな顔で下校していたのですが、次の週の頭です。
「茅場さーん。いるー?」
 桐生くんが昼休みに、教室へアリカさんを呼びに来ました。
 三人掛けの講義机でお友達とお昼だったアリカさん、囃されながら、教室の入口へ。
 すると、桐生くん「上。いい?」とだけ言って、足早にエレベーターへ向かいます。
「良いけど、どうしたの」
 返事はありません。アリカさん、急いで後を追いかけます。
 冬服でも少し肌寒く感じる秋の第三ルーフにたどり着いて、やっと桐生くんはアリカさんを振り返りました。
「俺、今日が最終日なの。登校」
「は?」
 アリカさん、立ち止まって大きな声を出してしまいました。
「なんで」
 桐生くんが振り返って、うなだれます。
「バイトしてたのとか、習い事サボってたのとか……まぁ他にも……色々……バレて」
 アリカさんの眉尻がどんどん吊り上がっていくので、桐生くんの背中が丸まっていきます。
「在宅授業に切り替えのち、転校になり……」
「ほら! 前に言ったじゃん! 楽器は?」
 桐生くんは顔をくしゃくしゃにして、首を横に振りました。
「そもそも、俺の好きに楽器やらせたのが間違いだった、って言う感じで」
「服も?」
「そっちは友達に預けた」
「いつ転校の話になったの」
「先月……」
 お姉さんの口座にアルバイト代が払い込まれたのですが、そこから分かったそうです。
「家の人、口座の動きまで見てたらしくて……」
「もうさぁ」
 アリカさん、前髪を何度か引っ張ります。
「もっと、早く言ってよ……」
「だって、言ったら、お互い、さようならの準備始めるっていうか……そういう空気になるのイヤじゃない?」
「じゃなくて!」
 アリカさんが、桐生くんに初めて怒鳴りました。お昼休みで第三ルーフにいた生徒さんが、一瞬二人を見ました。
「相談してほしかったって言ってるの」
「相談してどうにかなるなら、してるよ」
 桐生くんは静かに答えます。
「俺の積み重ねたやらかしだし、バイトの件では姉ちゃんにも迷惑かけたし。さすがに家の人に反論できなかったわけ」
 アリカさんは、何かを達観したような桐生くんを唇を噛んで見つめていました。
「本当はすぐ帰らないとなんだけど、アリカさんには挨拶したかったから、家の人待たせてて……」
 桐生くん、慌ててスカートのポケットからハンカチを出しました。
「やだ、アリカさんが泣くことないんだよ?」
 桐生くんはアリカさんに近づいて、目元にハンカチを当ててあげます。
「あたしだって、別に泣きたいわけじゃ」
「あーあー、こすっちゃダメだよ、腫れるよ」
「うぅぅ」
 ああ、アリカさん、しゃがみこんでしまいました。
「あの、急にこんなさようならなの、本当に俺もごめんって思ってるけど、まだ俺全然やる気だから」
「やる気って、何が」
 こもった涙声で尋ねるアリカさんの隣にしゃがんで、背中を撫でながら桐生くんは言います。
「アリカさんが戦ってたの見てたし、俺も逃げないで、ちゃんとやるってこと」
「うう」
 泣き声で返事をするアリカさん。
「今までのやらかしと、家の人みたいに大人になるのはムリだってこと、ちゃんと伝えてみて、ダメなら……ダメだと思うけど、そのあと父の人頼るよ」
 アリカさんは膝を抱えたまま、何度も頷きます。
「茅場さんじゃん! 大丈夫? ちょっと何したの?」
 アリカさんと同じクラスの女子生徒が桐生くんに詰め寄ります。
「違うの」
 アリカさんが顔を上げて深呼吸します。
「桐生が悪いんじゃないから」
 一息でそう言って、ブレザーで顔をぬぐいました。
「大丈夫。ありがと。桐生も、ごめん」
 お昼休みが終わる予鈴が鳴りました。
「茅場さん、落ち着いてからおいで。先生には具合悪くて遅れるって言っとくから」
「ありがとう」
 ほかの生徒さんたちが教室へ戻るなか、女子生徒も、アリカさんの肩を叩いて教室へ戻っていきます。
「……立てる?」
 桐生くん、アリカさんを支えて一緒に立ち上がります。
「大事なこと言わせてね。ここで、俺のこと何も聞かないでてくれてありがとう。楽しかった」
「あたしも楽しかった」
 アリカさんは桐生くんを見ずに、スラックスの膝を手で払います。その手を取って、桐生くんはアリカさんを覗き込むように見ました。
「また俺のこと見つけてよ。ね。で、今度はちゃんと声かけて欲しいな」
「うん。絶対」
「ほら、もうすぐ本鈴鳴るから」
 桐生くんは、アリカさんの背中を押して、入口に向かって送り出します。
「またね」
「また」

 その日の放課後、アリカさんは第三ルーフでいつもどおり走り込みをして、ジムに行きました。

◆

 そのジムの帰り道、迎えに来てくれたお父さんと、最寄りのモノレール駅まで歩きながら、アリカさんが切り出します。
「あのね」
「ん?」
「友達が転校するって。前に話した屋上の」
 お父さん、日に焼けたこめかみを揉みながら思い出したようでした。
「ああー……あの弁護士さんちの。家、厳しいんだっけ?」
「みたい。それで、色々あって」
「なるほどなあ」
 お父さんは納得したように顎をさすっています。
「母さん、休み前の保護者面談で、アリカが素行の悪い生徒と付き合いがある、って言われたんだと」
「え?」
 又聞きだけど、と前置きしたお父さんが聞かせてくれた桐生くんのお話は、アリカさんが知っている幾つかの悪行以外にも、夜間外出して補導されたり、長期休みに数日家に帰らなかったり。
「で、どうも、アリカの話と違うなって、俺も母さんも不思議だったけど。その子、家の方で何かあるんだろうな」
「……知らなかった」
「アリカも困ってる風じゃないし、ホウタ【アリカの兄】からも連絡ないから言わんでおこうと」
「おにい?」
 アリカさんは首をかしげます。
「アリカもミノリ【アリカの姉】も、本当に困るとホウタに言うだろう。そうすると、詳細は伏せて俺か母さんに伝えてくるんだよ。アリカの時は、部活辞めたいらしいから、話があったらOK出してやれ、とか」
 駅前の信号で、二人は足を止めました。
「そうだったんだ……」
「兄妹仲良くて助かってるよ。父さんも来月からは工事始まるし」
 アリカさんのお父さんは建設現場で働いていて、秋から大きな工事が始まるそうです。
「……知らないことばっかりだ……」
 アリカさんが鼻をすする音。
「14で分かるもんじゃないぞ、こういうもんは。まだ早い」
 お父さん、アリカさんの荷物を引き受けると、ついでに頭を撫でます。
「寂しいよなあ」
 アリカさんは頷きました。
「アドレス【連絡先全般を指す】は?」
 今度は、首を横に振ります。
「良いのか」
「いいんだ」
 アリカさんはお父さんを見上げて、自信のありそうな顔で笑いました。
​

【スタッフ】ナレーション リエフ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック
 

「あいつなら、どっかで会ってもきっと分かるもん」

​
P-PingOZ 「アリカさんと桐生くん・後編」 終わり

pp11-b

主人公:茅場アリカ(女性/13歳/学生)桐生悠香(男性/14歳/学生)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。

今日の主人公は、出会った時に9年校の7年生だった女の子と男の子。
正反対でどこか似ている2人が、ひいろ9年校の第三ルーフで過ごした二人の一年と半年を見守り続けました。

​ P-PingOZ「アリカさんと桐生くん」 ナレーション:リエフ

 第6ひいろ地区9年校の、みっつある屋上庭園の第三ルーフ。遊歩道沿いに並ぶアベリアの植え込み、奥の芝生広場や点在するハナミズキを雨が叩いています。
 その遊歩道を、雨具を着て、おろしたての靴で走る女の子と、それをガゼボから眺める男の子。今は、ツユクサ月【つゆくさづき/6月頃】。そろそろ雨の季節が終わる頃。
 女の子の名前は、茅場アリカさん【かやば ありか/13歳/女性/学生】。男の子は、この春アリカさんの隣のクラスに転校してきた、桐生悠香【きりゅう はるか/14歳/男性/学生】くんです。
 アリカさんは、桐生くんが少し苦手でした。
 髪の毛が明るい緑色だとか、問題児で前の学校を追い出されたという噂とか、ほとんどの授業をさぼってるらしいとか、理由は色々です。お気に入りの第三ルーフガーデンに桐生くんが居着いたこともその一つですし、なにより、初対面の印象が悪くて悪くて。

 その時の映像を見てみましょう。

 サクラの月【4月頃のこと】中旬ごろ。この第三ルーフ庭園は、7年生にならないと入れない棟の屋上にある、一番狭くて人気のない場所です。第一と第二は下級生も入れるし、庭園部の活動場所なのですが、この第三ルーフなら、誰にも何も言われず集中できます。
 運動着のアリカさんが、白い屋根のガゼボに荷物を置いて、足回りのストレッチをしている時です。いつも別のベンチに座っていた桐生くんが、突然やって来て尋ねました。
「B組の茅場アリカさんだよね。チア辞めたんでしょ? なんで筋トレしてんの?」
 アリカさんは答えず、手を強く握ります。
「毎日やってるでしょ?、気になってクラスの奴に聞いたんだけど分かんなくって」
 斜め向かいに座った桐生くんが首をかしげると、目を覆うような緑の前髪が揺れました。
「ねえ。どうして?」
 チアリーディング部に6年と少し在籍していたアリカさんは、7年生に上がってすぐ、部活を辞めました。それからは、週に二回、ボクシングジムに通っていました。ジムの日によって練習時間は変わりますが、毎日ここで自主練習をしています。
「言いたくない」
 アリカさんはランニング用の靴に履き替え、学校端末のタイマーをセットしました。アリカさんの学校は、私物の携帯端末を禁止する代わりに、タブレットと携帯端末を支給します。これは最低限の機能しかなく、認可アプリのみ使用できるもので、毎年新しい物に交換して使います。
「あ、俺やっちゃった? ごめんね?」
 桐生くん、首の後ろをさすって、すまなそうに言いました。
「こっちは気にせず。どうぞやって」
 アリカさんはイヤフォンをはめると、返事の代わりに声をかけます。
「足開いてるよ」
「え、やだ」
 桐生くんは両足を閉じて、制服のスカートを整えました。それから、上着のポケットから私物の端末を取り出し、何かのゲームを始めます。校則違反ですが、アリカさんも、校則違反の音楽再生機を持ち込んでいます。桐生くんのことは、とやかく言えません。
 呆れているのか怒っているのか、アリカさんは桐生くんをチラリと見て、庭園の歩道を走りはじめます。

 これが、アリカさんと桐生くんの出会いでした。
 
 次の日から同じガゼボに桐生くんが座るようになって、放課後の時間を潰すようになりました。会話はほとんどなく、やがてアリカさんは桐生くんを風景の一部だと諦めるようになりました。

 さて、今のアリカさんたちにカメラを戻しましょう。

 雨降りの中でランニングを終えたアリカさん、息を整えてガゼボに入りますが、少し歩き方がおかしいですね。柱に手をつくと左の靴を脱ぎ、踵あたりを気にしています。
「毎日真面目だね……どうした?」
 メイク用品をテーブルに広げる桐生くん、アリカさんの様子に気が付きました。
「怪我? ポーチに絆創膏入ってるから。使って」
「え」
 顔を上げて、そこで初めて、アリカさんは桐生くんの変化に気が付きました。ガゼボの分厚いテーブルに緑色の毛束が置かれていて、桐生くんは黒髪の上からウィッグネットをかぶっています。
「アリカさん?」
 目をしばたたかせているアリカさんの、視線の先に気が付いた桐生くん。
「あ、これ?」テーブルの毛束を持ち上げます。「ウィッグ」
「ああ……」
「びっくりした?」
「うん」
 両目で違う色のラインを引いた桐生くんが、楽しそうな笑顔を浮かべました。
「へっへ」
「なに」
「びっくりさせたなあって。ほら、使って」
 黒いポーチから、花柄の絆創膏を二枚出して、アリカさんの方へ押し出します。
「いいの?」
「いいよ」
 アリカさん、自分の前髪を何度か引っ張ってから、ひと言。
「ごめん」
「んーんー。いつも放っておいてくれてるから。お礼」
「いや、そうじゃなくて」
 首を強く横に振るアリカさん。
「あたし……ほっといたんじゃなくて……勝手にそっちのこと」
 雨音で消えそうな声で言い淀むアリカさんを見て、吹き出す桐生くん。
「え?」
「もーさあ、ほんと真面目!」
 笑いながら、桐生くんは言います。
「フツーに話してよ。あの時は、まずいこと聞いちゃったんでしょ?」
 手に持った鏡を置きます。
「俺、アリカさんとフツーに話したいしさ」
「うん」
 アリカさん、雨具を脱いで、テーブルの絆創膏を受け取りました。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 濡れた足をタオルで拭いて、靴擦れに絆創膏を貼ったアリカさん。椅子から立ち上がると桐生くんに向き直りました。
「あのさ……それじゃ言うけど」
「なに?」
「チークが赤すぎ。雰囲気に合ってない」
「……高かったんだけどなあ」
「合うメーカーとかメイクが知りたいなら、ARで試すのがいいよ」
 落ち込む桐生くんに、ロープワークの準備をしながらアリカさん。
「これ終わったら、いいアプリあるの教えるよ」
「ほんと! 助かる!」

 この日から、アリカさんと桐生くんは、少しずつお互いのことが分かってきました。

 二人とも末っ子同士で、ジャンルは違うけれどおしゃれに関心があること。アリカさんは病気以外で無遅刻無欠席だけれど、桐生くんは平気で遅刻してくること。お母さんとお祖母さんの仲が悪いアリカさんと、お父さんが家を出て別居中の桐生くん。
 お話するようになっても、アリカさんは桐生くんにかまけて、練習を中断することはありませんでした。ジムの日はランニングだけ、ジムのない日はロープワークなどをきちんとこなします。それを、桐生くんがからかいと敬意を混ぜた視線で眺める毎日は、夏休みに入るまで続きました。

 ……1か月半の夏休みが終わって、最初の登校日。

「え、桐生、勉強してる」
 桐生くんが学校支給のタブレットを前に頭を抱えていると、アリカさんがいつものように、大きなバッグと第三ルーフにやってきました。桐生くんは電子ペンを投げ出して、大きく伸びます。
「数学の夏季課題。2回目の授業で出せばセーフだよ」
 少し低く、かすれた声で桐生くんは言いました。
「嘘でしょ」
 空を仰いで、アリカさんは額に手を当てました。
「……いいや。頑張って」
 アリカさん、ストレッチして靴を履き替えると、ランニングに出ていきます。その背中を、桐生くんは暑そうな顔で見送りました。
「真面目だなあ」
 日に焼けて少し背が伸びたアリカさん。桐生くんにはどう見えているんでしょうか。
 40分後。
 アリカさんがガゼボに戻ってくると、桐生くんはウィッグを外して、折りたたみ鏡を片手にメイクをしていました。
「おかえりー」
「終わったんだ」
「飽きちゃった」
「そう」
 もう怒りもしません。アリカさんは水を飲むと、クールダウンのストレッチを始めます。
「桐生、さあ。クロコレ【クローゼットコレクション/半期に一度開催の、服飾系展示即売会イベント】、いなかった?」
 桐生くんの手元が狂いました。
「え? アリカさんも?」
 桐生くん、ズレたつけまつげを剥がします。
「趣味とは違うけど、おねえの付き合いで」
「どうして声かけてくれなかったの! 俺たち友達じゃなかったんだぁ……」
 大げさに悲しみを表す桐生くんのお芝居に、アリカさんが戸惑うこともなくなりました。
「そっちも誰かと一緒だったから」
 桐生くんは記憶をなぞるように頷きます。
「そっか……あー、そうだね」
 それから、大切なことを尋ねるように、アリカさんへ聞きます。
「どうして俺って分かったの?」
「ほくろが。同じところにあるなーって思ってた」
 左頬のあたりを指さすアリカさん。
「声もちょっと変わってたけど、喋った時の嫌味っぽい言い方がそっくりで」
「そこぉ?」
 アリカさんの答えを聞いて、桐生くんは体を揺らして笑います。
「私服の俺に気が付いたの、アリカさんが初めてだ」
 桐生くん、私物の携帯端末をポケットから取り出して、アリカさんに見せました。画面には、どこかの姿見に全身を映した桐生くんの写真。白と淡い緑のドーリーファッションです。
「これ?」
「そう! やっぱり桐生だったんだ。メイク上手くなったね」
「休みの間練習したんだよ。あと、教えてくれたARアプリ凄い便利。ありがとね」
「あれは、おねえが教えてくれたやつだから」
 照れ隠しのように、アリカさんは髪を結び直しました。
「アリカさんち、仲良くて羨ましいよ。あ、休みでお兄さんにも会えた?」
 アリカさん、心底うんざりした顔になりながらロープワークを始めました。
「来た来た。プロテイン10kgもあたしに持ってきて」
「まじ? 面白い人だね」
「あたしにボクシング勧めたのも、おにいなんだ」
「ああ」
 桐生くんが、春以来の質問を投げかけます。
「チアやめたのって、ボクシング始めるからだったの?」
 アリカさんは答えず、ロープワークの速度を上げました。3分を告げるタイマーが鳴って、1分のインターバルに入ります。そこで息を切らしながら、ようやくアリカさんは口を開きました。
「……勝ったら教える」
「試合に?」
 アリカさんは首を振って、顎を伝う汗を手の甲で払いました。アリカさんの様子を見て、桐生くん、聞き方を変えました。
「ボクシング、楽しい?」
「楽しく……なって、きたかな」
 何かを確認するようなアリカさんのささやかな笑顔に、桐生くんは問いを重ねる事をやめた様子でした。
「それなら、いいんじゃない。楽しいのが一番だよ」
「そうかな」
 いつになく真摯な声色で桐生くんは答えました。
「そうだよ。ほんとだよ」

◆
​
 サザンカ月【11月ごろ】の曇り空。

 アリカさんが、冷たい風の通り過ぎる第三ルーフのドアを開くと、楽器の音が聞こえてきました。
 眉を寄せながらいつもの場所へ足を向けると、スカートの下に運動着のズボンをはいた桐生くんが、木製のバイオリンを演奏していました。ウィッグもウィッグネットも外して、手と鼻の頭を真っ赤にして、真剣な面差しで音に集中しています。
 アリカさん、思わず立ち止まってしまいました。
 やがて、大きなため息をついた桐生くんがアリカさんに気が付いて、弓を持った右手を振ったことで、ようやくアリカさんは体が動いたようでした。
「桐生、楽器弾けるんだ」
「習ってる」
 桐生くんは、お家の方針で、学習塾の他に三つの資格塾、テニスにも通っているそうです。
「さぼってたの?」
 桐生くん、何かと理由を付けて、全部の教室にほとんど出席していません。それを知っているアリカさんが尋ねると、
「そんなわけないじゃん」
 棘のある言い方で否定した桐生くん。アリカさんが鞄の持ち手を握る手を見て、慌てて駆け寄ります。
「ごめんー! 八つ当たりしちゃった! これは、マジのやつなの。ちゃんと通ってる」
 右手に持った弓のネジ部分で頭をかきました。
「こっちこそごめん。からかったりして」
 いいよ、と言うように桐生くんは首をふりました。
「そっちが走り終わるぐらいで俺、今日帰るよ。コンクール近いから」
 桐生くんが指揮棒のように右手を振るさまに、アリカさんは靴を履き替えながら笑顔になります。
「好きなんだね」
 桐生くんは、アリカさんが見たことのない穏やかな顔で頷きました。
「楽しいんだ。上手く言いにくいけど、ちゃんと自分だなーって感じがして。でも、あんまり……家の人は分かってくれないね」
 桐生くんが『家の人』と言う時は、出て行ったお父さん以外の家族の事です。お母さんと、上のきょうだいたち。
「もし家の人の言う通りに生きるのが正しいなら、俺はすごく間違えてる。服もそうだし、音楽もそう」
 左手でバイオリンの弦をはじきます。
「でも、音楽もファッションもないなんて、どっかで死ぬと思う」
 桐生くんのお母さんは、学校関係の案件を扱う弁護士です。理想どおりの航路へ、ご自分の子どもたちを導くことを、お仕事とは別のライフワークにしています。その方針の違いから、桐生くんのお父さんはお家を出て行ってしまいました。
 アリカさんの肩越し、遠くを見る桐生くん。アリカさんは少し首を傾けて、桐生くんの大きな目を見ました。
「桐生は、偉いよ」
 アリカさん、「桐生は」を強調して言います。
「楽器も服も、続けてるじゃん。戦ってんじゃん。偉いよ」
 桐生くんは、アリカさんと数秒目を合わせて、照れ笑いを浮かべました。
「……俺でいるために必要だから」
 桐生くんは背筋を伸ばし、もう一度バイオリンを構えました。
「なんか、語っちゃってごめんね」
 アリカさんは何か言おうとして、結局、首を横に振りました。
「全然。邪魔しちゃったね。聞いてるから。練習、頑張って」
 桐生くんは右手の弓を振って応えます。アリカさん、体を慣らす様にゆっくりと走り始めました。
 今日の伴走曲は、友達のバイオリンです。同じ箇所を丁寧に繰り返し練習してから、何度か通して演奏しています。満足できるものだったのか、アリカさんが通るまで待っていた桐生くん、笑って手を振ると第三ルーフを出ていきました。

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【スタッフ】ナレーション リエフ/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック

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​P-PingOZ「アリカさんと桐生くん・前編」 終わり/後編へ続く

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主人公:茅場アリカ(女性/13歳/学生)桐生悠香(男性/14歳/学生)

いつかのどこかのお話です。
あるところに、第02特区という島がありました。
みんなはこの島をオズと呼び、日々せいいっぱい生活しています。
この島では、住民の皆が主人公。
そんな彼らの様々ないとなみを、ひととき、覗いてみましょう。
今日の主人公は、渡マキ(わたりまき/63歳/女性/自営業)さん。
小さな5階建てのビル「クラウン」のオーナーで、ファッションが大好きなおばあさま。
彼女が育ち、今も愛する場所を、一緒に覗いてみましょう。

  P-PingOZ 「CROWN&CROW」 ナレーション/ドロシー

 ましろ地区、ひなげし通り12番地。ハイウェイとモノレールの高架の間、ひいろ地区とは橋を挟んで対岸に位置します。ここは長らく、ユースカルチャーの発信地。今でも多くの若者が、昼夜問わず自分の個性を磨いたり、競ったり、憧れたりしています。
 石畳風の目抜き通りには、ひいろ地区で見られるようなオリエンタルな服をネオンアレンジした専門店、オーナーのセンスで選び抜かれた物の並ぶセレクトショップ、小さなライブハウスやクラブ、古着屋さんに美容室……伸びるアイスクリーム屋さんなど流行りのお店も並びます。
 時刻は、そろそろ18時を回ります。ライブハウスやクラブ、夜間営業のフェイク植物屋さんも店を開ける時間です。テイストの揃ったファッションの若者たちが固まって、思い思いのナイトライフを始めるんです。なんだか、人通りが魚群みたいに見えてきますね。
 ただ、お店のところどころで電子看板が割れていたり、標識や街灯の支柱が曲がったりしていますね。街を歩く人たちも、夜でもサングラスをかけていたり、光る素材や威圧的なファッションが多いので誤解されてしまうかもしれません。
 でも、これは仕方のないことです。
 先月の3時間舞踏会【清掃人形の集団暴走事件】から、完全に立ち直れていないだけで、近くにイエローライン【観光車両、公共車両、タクシー優先の道路】がありますし、治安は良いほうなんですよ。
 さて。
 この目抜き通りをカメラを片手に颯爽と回遊するおばあさん。こちらが、今日の主人公、渡マキさん。
 詰襟の黒いロングワンピースはシンプルに見えますが、よく見ると黒い糸で大きく竜の刺繍が施されています。これはオリエンタル系ブランドのデッドストック品とのことですが、何より目を引くのは、ツーブロックの白髪と、刈り上げた右側頭部にインプラントされた集積回路です。
 特に何の機能もない、純粋にファッションとしての身体改造です。なので、蛍光ピンクのケーブルが首と集積回路を繋げているのも、ファッションです。
 このスタイルはマシンレトロと言って、マキさんがティーンだった頃……60年以上前の流行でした。本来のマシンレトロは原色を多用して、体にフィットする素材やハンドヘルド型端末のジャンク品、沢山のピアスで表現するものだそうです。マキさんのファッションは彼女自身が好きに着て、クロウンと呼ばれるようになったものです。
 黒いトップスとボトムをベースに様々なファッションの引用を行っていたマキさん、「カラス(crow)のように黒い服、借り物ばかりで中身のない道化師のよう(clown)」と批評され、それに対し「好きな服を好きに着てる。好きに呼べばいい」とリアクションしたのが名付けのルーツです。
 ちなみに、マシンレトロは、現在はもっと安全で洗練された、ネオニッシュ【neon+fishの造語】という形で息づいています。
「やあ。一枚いいかな」
 ちょうどマキさんが、そのネオニッシュの女の子に声をかけていますね。
「え! うっわあ、もちろん! マキさんに見つかりたかったんですよ!」
 結んだ二つのお団子に光る花を挿していた女の子は大喜びです。マキさんに見つかると良い波が来る、というのが、ひなげし通りに集まる若者のジンクスなんですって。
「ジャケット、自分作ったの?」
 鮮やかな緑のジャケットには、左に赤いLED文字で『青』、右に青いLED文字で『赤』と書かれています。あべこべでは……?
「んーん。友達に得意な子がいるんだ。良いでしょ」
「うん。面白い」
 ジャケットのバックスタイルには、所属ダンスクルーの白抜きロゴマーク。稲妻形に配置したLEDがそれを誇示していました。重ね付けしたLANケーブルブレスレットや、首元のQRコードタトゥーステッカーの色と光も、褐色の肌にとても映えますね。
 お分かりいただけましたか? ネオニッシュは、とにかく光るんです。マシンレトロの流れからガジェットを取り入れるのも特徴で、ARステッカーの流行も、ネオニッシュ系のアパレルが震源地だそうです。
「じゃあ、後ろ向いて。ジャケット前開けてこっち……そうそう」
 マキさん、ジャケットの模様がすべて写るようにポーズを指示して、カメラに収めました。
「自分、今日はこれからどこ?」
「40【フォーティー/12番地にあるクラブ】に。ショウケースやるんです」
「そう! 楽しんで。撮った写真、店飾って良い?」
「もちろん! うひゃー嬉しい!」
「ベニーちゃん、遅れてごめん! 教授がさあ……」
 そこに、女の子のお友達でしょうか、光る花冠を斜めにかぶったティーン世代の女の子がやって来ます。
 ブロンドのボブカットには色とりどりのつけ毛、VRゴーグルを首にかけ、黒地に赤で大きく「福」とプリントされたTシャツ。黒いツナギの裾は膝丈で、袖を腰で結んでいます。背中には、大きな熊のぬいぐるみリュックを背負っていますね。
「いいとこ来たね! イザベル、こっち」
 イザベルと呼ばれた女の子、お友達とマキさんを見て、無言で膝から崩れました。
「ほんもの……マキさんだ……物理現実にいる……」
 魂が抜けたようにへたり込む相棒を助け起こすと、ベニーちゃんと呼ばれた女の子は笑いました。
「この子、マキさんのファンなの」
「みたいだね」
「あ……あのあの、わたし、イラクサのモデルの画像見て、とっても素敵だなって!」
「あらそう」
 イザベルと呼ばれた女の子から握手を求められ、マキさんは応じます。
「もうババアだけど」
「おばあちゃんでも、好きなお洋服なのがかっこいいんです!」
 この女の子の反応が特別熱烈というわけではなく、マキさんを知る人たちは、程度の大小はあっても、このようなアティチュードです。
 彼女がリスペクトされているのは、マキさんが12番地の生きたヒストリーだからでしょう。
 マキさんが10代の頃。ましろ地区とひいろ地区のダンサーらが高架下で交流したことが、新しいファッションカルチャーとひなげし通りを生みました。マキさんはそこでモデルにスカウトされ、ショーを中心に成功した方でした。
 その後家族が増えたことでストリートから離れたのですが、ずっと自分の好きなファッションを大切にしてきたマキさん。私生活が落ち着いてから、この街にマシンレトロを中心にした古着屋さんを構えました。それが、20年と少し前。
 そうして、長いブランクさえ楽しむように、マキさんはひなげし通り12番地と再び仲良くなったのです。ここではお話しませんが、まるで映画が作れそうな道のりでした。そのライフスタイルが、若者たちにどう見えたのか。彼ら彼女らのマキさんへの態度でよくわかりますね。
​「お! 見つけた」
 女の子たちと別れ、次にマキさんが目をつけたのは、藁のように痩せた男性です。
「ありゃ、また見つかっちゃった」
 サスペンダー付きのスラックスは千鳥格子模様、身頃で色の違う切り替えシャツ、頭の帽子とブーツは同じ花柄。
「今日はいい帽子じゃないか」
 男性、やや自慢げに帽子を外してお辞儀します。
「帽子と靴は職人通り【ブラウニーどおり/うつぶし地区・オーダーメイドの職人が集まる商店街】よ」
 マキさん、感心したように男性の全身を見ます。
「でかい買い物した甲斐があったじゃないか。撮るよ」
「いいけど、飾るのは」
 男性は指でバツ印を作りました。
「また? まあいいわ。そうだな……あすこの花屋の前」
「はいはい」
 並んで花屋さんへ向かいながら、二人はお話を続けます。
「興味本位で聞くんだけどさ。インプラント、やるとどんなモンなの?」
 男性はお金を示すハンドサインで尋ねました。
「ちゃんとしたら、50ぐらいか。銀貨」
「うへえ」
「やるんなら一生モン」
「だろうね。医者とか大変って聞いたし」
「大変よ。子ども産んだ時は全員大変だったわ。それで三人だから、よくやったよね」
 マキさん、豪快に笑います。
「ばーちゃん、病気しないでよね」
 第02特区、平均寿命はだいたい70歳ぐらいです。
「死ぬまでは元気だよ。店先使っていいかい」
 花屋さんに声をかけ、男性のスナップショットを撮影します。
「やっぱり、いいよ、自分。モデルに向いてる」
 マキさんが褒めると、男性は苦笑い。
「やだよ、小心者だもん。じゃあ、俺打ち合わせ行かないと。終わったら店行くわ」
「お、あたしも戻らんと。また見つけたらな」
 あ! マキさん、ご自分のお店に戻るみたいですよ。せっかくですから、私たちもついていきましょう!
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👚
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 ひなげし通り、12番地。狭い路地の隙間に、床面積の狭い5階建てのビルがあります。
 ここが、今日の主人公、渡マキさんのお城「CROWN」です。
 数名いるスタッフのお給料、仕入れやビルの維持にかかる諸経費を払うと、毎月マキさんの手元には最低限のお金が残る程度の利益が出ています。
 古着を含め、様々なテイストのお洋服やアクセサリーを中心にしたセレクトショップが3フロア、古いファッション関係の資料や撮影したストリートスナップのアーカイブを閲覧できるフリースペースが1フロア、最上階に事務所が入っています。更に、地下には夜間だけ営業の小さなダイナー。
 マキさん、大体のお仕事をお孫さんぐらいのスタッフ達にお任せして、ご自分は展示会や買い付けに行ったり、アーティストのスタイリングをなさったり。空いた時間で、先ほどの様に、12番地のファッションをカメラに収めています。
 COWNの地上階は10時から19時、地下階のダイナーが入れ替わりで19時から日付が変わるまで営業します。小さいお店ですが音響設備もあって、どこのフロアでも、イベントやパーティーで貸し切りにできるそうです。
 マキさん、夜はダイナーのカウンターでお客さんを眺めるのが大好き、なのですが……お店のドアを開けるなり、何やら険悪な雰囲気ですね。
「オーナーぁ……」
 白いシャツを薄いピンクで濡らしたアルバイトのミナミコさんが、手に負えないという表情でマキさんに泣きつきました。
「ケンカ?」
 ミナミコさんが頷きます。
「友達関係のトラブルらしいんですけど、止められなくって……」
 マキさん、口論する二人を見ます。片方は、ベリーショートに動物柄のファージャケットとタンクトップ、レザーパンツを履いたズーリズム【Zoo+tourismの造語】の女の子。もう片方は、リボンやフリルを沢山使ったふんわりワンピース、パステルカラーのお人形さんみたいなキャンディードーリーの男の子。
 お話を聞く限り、お互い共通のご友人をはさんだトラブルらしいのですが……
「わかった。一人にして悪かった。後は良いよ」
 マキさん、ミナミコさんに物理鍵の束から一つ外して手渡します。
「2階の鍵。好きなトップス着てこい。落ち着いたらおいで」
 背中を叩いてスタッフ入り口へ送り出しました。ざわつく店内を数歩で横切り、マキさん、カウンターの中へ入りました。お客さんの視線は、マキさんとグループを交互に往復します。
「何歳児のおでかけ服だよ! 家帰って塗り絵でもやってな!」
「はぁ?! そっちこそ、そんなに動物好きならVRZOO(動物園)にでも行けば? あ、アンタがもうひとりで動物園か!」
 ついにお互いのスタイルにとって最大の侮辱的な言葉まで飛び出しました。
 あの、さすがにそろそろ止めないと……
 マキさん、カウンター下から取り出したのは……白地に赤のラインが入った……ショットガン? えっ、免許所持していましたっけ?
 ええ、いけませんよ、そんな、レーティングが、【破裂音】

 お店に響いた発砲音に、お店は一瞬で水を打ったようになりました。

 マキさんの構えたショットガンから放たれたものは、喧嘩をしていた二人のそばに着弾して蛍光オレンジの塗料を散らしました。
 よかった! ペイント銃でした!
 マキさん、二人を静かに見据えます。そして、「次は服」と一言。
 このお店に限っては、ペイント銃は実銃より効果がありました。
「やめる?」
 喧嘩をしていた二人は視線を交わし、マキさんの問いかけに即答します。
「やめる!」
「やめる」
「なら、自分たち。相手一個ずつ褒めて」
「は?」
「え?」
 マキさん、再びペイントガンを構えます。
「いや文句とかじゃなくて」
「あの」
「なら、奥」
 ペイント銃の銃口を動かして、奥のボックス席へ向かうよう指図します。
「あとは解散!」
 マキさんの鋭い声で、お客さんたちはまばらにそれぞれの時間へ戻っていきます。
「オーナーお疲れさまで……す……?」
 ミナミコさんと入れ替わりで入ってきた男性の大橋さん。お店の状況が飲み込めないみたいです。
「おう。お疲れ。ミナミコ少し抜けてるよ」
「それは別にだけど。なんです?」
 大橋さんの視線はペイントガンに注がれています。
「大丈夫。適当にノンアルの飲み物二つ用意して。他からも一杯ずつオーダー取って。ウチが払う」
 それで何事か察したのか、大橋さん、カウンターで仕事に取り掛かりました。マキさんはペイントガンを椅子に立てかけて、カウンターから二人の様子を伺っています。
 マキさんの視線の先では、口論していた二人が気まずそうに、お互いを探り合っていましたが……ズーリズムの女の子が、男の子の爪を見て身を乗り出しました。
「え、お前ネイルめっちゃいいじゃん。どこよ?」
「甜甜街の方のサロン。そっち、まつげ綺麗だけど、マスカラ何?」
「マスカラじゃない。エクステにマニキュア塗ってつけてる」
「へえー……」
 男の子、少し気まずそうに切り出します。
「……さっきはごめん。あいつ、俺のことそんな風に言ってるなんて」
 マキさん、大橋さんからドリンクを受け取って立ち上がりました。
「こっちもいきなり吹っ掛けて悪かった。オーリって呼んで。よろしく」
「ハルカ。よろしく」
「自分たち、落ち着いたか?」
 そう言って、二人の座るボックス席へ、ミントブルーのドリンクを置くマキさん。
「すみません」
「ごめんなさい」
「原因なんだ。行き違いか」
 二人は頷きます。
「次から場所選べ。これはウチ持ち」
 そして、オーリさんの隣に無遠慮に座りました。
「自分、そのウィッグ、自分でセットしてるか」
 そのままハルカさんに尋ねます。
「え、地毛じゃねえんだ! どこの?」
「あー……あとでサロンの場所と一緒に教える」
「助かる~! 地毛っぽいの探してたんだ」
 オーナーさんの性格がお店に出るとは、よく言われることですけれど……切り替えというか……見た目の全然違う人たちが、小物やメイクの話ですっかり喧嘩を忘れてしまうものなんですね……
「来月、ねーちゃんの結婚式でフォーマル着るんだけど」
 オーリさんがため息。
「今の髪だとダメなんだよ」
「ダメ?」
 マキさんが尋ねます。
「ねーちゃんが、妹らに揃いのバレッタつけて欲しいって言うわけ」
 携帯端末で画像を見せます。
「へえ。本物の真珠だ」
「マキさん写真で分かるの? エっグい」
 ハルカさん、自分のネイルを見て何かに気づいた様子。
「もしかして、爪もそれで?」
 オーリさんは気が重たそうに頷きました。
「別に、ねーちゃんが嫌いとか、フォーマルが嫌とかじゃないけど……なんかさぁ」
 オーリさんのため息を、マキさんはむしろ面白がっているようです。
「自分、本当にズーリズムだな」
「本当って?」
 ハルカさんが首をかしげました。
「昔、もっと北側に住んでた富裕層の子どもらが、親に反発したのがズーリズムの原型」
「へえ」
 ハルカさん、興味深そう。
「あの頃の親世代が動物保護に熱心だったから、それを皮肉って、ファーだとか、動物の柄物だとか着てな」
 居心地悪そうに身じろぎするのはオーリさん。
「いや、別にそんな、反発とかじゃないし……あ! そうだ、ドレスとか決まってないから、二人とも助けてよ。バレない程度に好きにしたいし」
「俺はマキさんのコーデが見たいなあ」
 ハルカさん、オーリさんと一緒にマキさんに期待するまなざし。マキさん、右側頭部のインプラント接合部を軽く掻くと、立ち上がります。
「本当は有料だぞ」
「!」
「タブレット取ってくる。あと、自分。メイク得意だろう。手伝え」
 ハルカさんに言いおいて、マキさん、私物のタブレット端末を取りにダイナーを後にしました。
「あ。えっと、オーリ今のうちに、連絡先」
「そうだ。頼むわ」
 後には、携帯端末を振る二人。

 ……マキさんが地下からの階段を上がる途中、街で写真を撮った男性とちょうどすれ違いました。
「来たか」
「来るって言ったからね。ばーちゃん楽しそうよ。良い事あった?」
 男性の言葉に、マキさんは目を細めました。
「ウチはいつでもご機嫌だよ。自分も楽しんでいきな」

 
【スタッフ】ナレーション ドロシー/音声技術 琴錫香/映像技術 リエフ・ユージナ/編集 山中カシオ/音楽 14楽団/テーマソング 「cockcrowing」14楽団/広報 ドロシー/協力 オズの皆様/プロデューサー 友安ジロー/企画・制作 studioランバージャック


P-PingOZ 「COWN&CROW」 終わり

pp10

主人公:渡 マキ(女性/63歳/自営業)

Text Archive

2nd Season

pp18

エピソードを読む

主人公:雨桐 ヒル(男性/29歳/造園業)

結婚式を控えた友人にスピーチを頼まれた主人公は、文面を考えたり、道具を揃えたり。誰にも伝えない胸の内を滲ませ、スピーチが始まります。(ナレーション:リエフ)

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pp17

エピソードを読む

主人公:エルモ・ヴォルペ(男性/6歳/学生)

年末の商店街、初めてたったひとりで買い物にやってきた男の子。無事に目的地へ辿り着けるんでしょうか? 見守っているのは、我々番組スタッフだけではありませんでした。
(ナレーション:山中カシオ)

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pp16

エピソードを読む

主人公:栂・グウェン・ヒバ(女性/42歳/義肢カウンセラー)

真面目なヒバさん、ある朝モノレールで携帯端末を失くしてしまいました。ヒバさんが行ったほとんどお手本通りのプロトコルと、ちょっと不思議な落とし物の行方を見ていきます。
(ナレーション:ドロシー)

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pp15

エピソードを読む

主人公:魯アリン(女性/22歳/大学生)

学校街にそびえる私立大学に通う主人公。サークルや他の生徒さんとの有意義な時間に、何か始まりそうな気配。知識の殻で過ごすある日にカメラがお邪魔しました。
(ナレーション:リエフ)

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pp14

エピソードを読む

主人公:石水ハナダ(男性/25歳/会社員)

社宅から徒歩8分、エレベーターで50秒の会社に勤める主人公。彼を折ったものと、彼を救うもの。頑張る先輩としての主人公をカメラがとらえます。
(ナレーション:ドロシー)

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pp13

エピソードを読む

主人公:???(女性)

雨の夜には笛吹きが出る。使い古された小言の類。今回の主人公は、そんな雨の夜に、コンテナ一杯何かを積み込んだ小型三輪乗り。正体不明の主人公が名乗るまで、どうかご覧下さい。
(ナレーション:友安ジロー)

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pp12

エピソードを読む

主人公:シェラザード出版

うつぶし地区にある、たった6人(うちAIがひとり)の出版社、シェラザード出版。子供と大人に向けたエンタメのほかに、ルポルタージュを電子と紙、両方で発行する会社のお仕事を取材しました。
(ナレーション:山中カシオ)

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pp11-b

エピソードを読む

主人公:茅場アリカ(女性/13歳/学生)桐生悠香(男性/14歳/学生)

放課後を学校の屋上で過ごす女の子と男の子。最初はひとりだった二人、友達になってからさようならまでの時間を覗き見します。
(ナレーション:リエフ)

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pp11-a

エピソードを読む

主人公:茅場アリカ(女性/13歳/学生)桐生悠香(男性/14歳/学生)

放課後を学校の屋上で過ごす女の子と男の子。正反対だけれどどこか似ている二人の、何でもないやりとりをスクラップしました。
(ナレーション:リエフ)

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pp10

エピソードを読む

主人公:渡 マキ(女性/63歳/自営業)

ファッションの街、ひなげし通り12番地。そこに好きなものを集め、自分の巣に飾り立て ずっとそうして生きているご婦人が、今日の主人公。彼女をはじめ、様々なファッションを目で楽しむエピソードです。
(ナレーション:ドロシー)

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